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第1話

 数日前に降った雪が雪囲いを施された庭園を白く染めていた。  時折ガサリと音を立てて藁から滑り落ちては、庭石に当たって砕け散る。  それを見るともなしに佇む青年の手元には、鮮やかに色づいた寒椿の花があった。  薄灰色の空、白い雪――無彩の中で一際美しく映える花弁にそっと唇を寄せると、傍らの竹筒から流れる細い清流が薄氷の張った手水鉢に注がれ、静まり返った庭に水琴窟の音色が響き渡った。 「そんな格好では体を冷やすぞ」  背後から不意に聞こえた低い声に、伏目がちの長い睫毛が小刻みに震えた。  玉石と雪を踏みしめる草履の音が近づき、彼の柳のように細い腰が力強い手で引き寄せられる。 「――誰かに見られたらどうするおつもりですか?」  凛とした声は相手を責めるには少し優しい響きを含んでいた。  着物の生地を通して感じる彼の熱に、流されそうな自分がいる。このまま全てを委ねてしまいそうな気持ちを押し殺し、きつく唇を噛んだ。 「構わない。正直にこの男を愛していると言う……」  ふっと自嘲気味に笑った彼の息が耳朶をくすぐり、両腕の中に抱き込まれていることを知った。  江戸時代後期に創流された生け花の流派、祥生(しょうせい)流家元として名を馳せる四柳(しりゅう)和武(かずたけ)は広い屋敷に独りで住んでいる。  過去には弟子たちとの良からぬ噂も立っていたが、今はそれも耳にしなくなっていた。 「(みやび)……」  熱田(あつた)(みやび)は、そんな和武を師と仰ぎ、師範としてこの屋敷に出入りしていた。  小柄で絹のような白い肌を持つ彼は実に女性的で、儚げな表情が印象的な青年だ。その反面、筋肉質で大柄な和武は野性味を帯び、獰猛な虎の様相を見せることもあった。  儒教の思想を理念とした、繊細で計算しつくされた完璧な美――それは彼が求めてやまない流派の神髄なのだ。  和武の腕の中で小さく身じろいだ雅は、手にした寒椿をじっと見つめて言った。 「――貴方のご縁談の噂を耳にしました」 「どこからそんな根も葉もない噂が立つのだろうな」 「時折、あなたの襟元から香る鈴蘭の香り……。それはその方が着物に焚き染めている香なのでしょう?」  雅の細い首筋に顔を埋めながら、呆れたように吐息する和武ではあったが、前に回されている指先が微かに動いたのを見逃さなかった。 「――貴方の跡継ぎを残すことは家元として大事なこと。私にはどうやっても出来ない事ですから」 「妬いているのか?」 「いいえ……。今ならまだ、間に合います」 「何がだ?」 「貴方を忘れられる……。何もなかったことに出来る」  椿に触れた唇が微かに震えている。まるで雅の心の内を表すかのように椿の花弁が一枚、白い雪の上に舞い落ちた。  和武の節くれだった大きな手が雅の手首をそっと掴んだ。  ビクリと肩を震わせた彼は、再び目を伏せた。  両手首にうっすらと残る赤い縄の痕……。それは和武との切っても切れない束縛の証。 「――まだ残っていたか。悪いことをした」 「いえ……。私は安堵しています」 「なぜだ?」  雅は首筋に押し当てられた唇の熱さに、小さく吐息しながら続けた。 「これが消えた時……それは貴方との別れの時だと思っているから。貴方が私を束縛し、愛している証……」 「あんなに苦しい思いをしているのに……か?」 「苦しいのは一瞬。貴方はこうやって私を愛してくれる。そう……私だけをね」 「色を失くした真冬の中で咲く寒椿が何より美しく見えるのは、そういうことなんだろう」 「え?」 「虚無の中にいる俺が求めてやまない壮麗たる鮮烈の赤。自然界に生きる儚い人間の末路ほどつまらないものはない。お前と出会うまで……そう思っていた」  手首に残った縄の痕――雅は自身の手首に朱色の縄が食い込んでいる幻を見ていた。  乾いた冷気に包まれた座敷で営まれる二人だけの狂宴。  静寂と緊張、それを凌駕する熱と快楽。 「美しい椿……。俺の前で艶やかに乱れ咲いてくれ」  手首を掴んだ和武の指先に力が込められる。ふわりと解かれた雅の手から零れ落ちた椿が足元に散った。  白足袋に舞う花弁が、雅の魔性を呼び覚ましていく。 「――今宵もお待ち申し上げております」  薄っすらと微笑んだ雅の唇が椿の紅に染まる。それはまるで和武を誘うかのように妖しい艶を帯びていた。  長い睫毛を揺らしながら瞼をあげた雅の体から香るのは、和武を欲情させる麝香の香り。 「どこまでも堕ちよう……」 「貴方とならば地獄の果てまで」  “恋人”――と、公に出来ない秘めた想いが今、凍てついた体を溶かしながら、雅の肌に朱色の縄を纏わせていく。 「あぁ……っ」  顎を上向けて喘ぐ彼の首筋に歯を立てて、和武はすっと目を細めた。  重なるたびに生命は永遠に続いていく。そう――生け花と同じ、本来のあるべき姿を曝け出すことで、より美しくなっていく。  そこに秩序という縄をかけることで、究極の芸術品となるのだ。  雅は……絶対に手放すことが出来ない最初で最後の最高傑作――なのだから。

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