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第1話
「鬼灯様ぁ」
「鬼灯様ぁ、これ読んで」
今日も麗らかな地獄の昼下がり。食堂で昼食を食べ終えた鬼灯の元に、小さな本を抱えた座敷童子がやってきた。
執務の合間の息抜きとして座敷童子に読み聞かせを始めてから、双子は閻魔庁の図書室や資料室、もしくは鬼灯の自室から興味のある本を選別する。そして鬼灯の元へ訪れては、読書をせがむのだ。本日は図書室から一冊、愛らしい花々が表紙の本を持ってきていた。
「これは……また。お二人とも、素晴らしいチョイスです」
「ねぇ、これ読んで」
「闇の花言葉」
"闇の花言葉"は本の題名である。
鬼灯は双子から本を受け取ると、彼女たちを連れ立って金魚草が植えてある中庭へと赴いた。
金魚草が一望できる階段に腰を落とし本を開く。本の内容は現世の花と、その花言葉についてである。現世の花言葉には縁起のいいものと悪いものがあって、この本は主に縁起の悪い花言葉を選んで掲載している。
本の文字を目で追い始める鬼灯の黒髪が、金魚草と共に風に揺れる。何処からとも閻魔殿を吹き抜けていく風は、地獄の湿気と熱気を孕んでいた。
「"アネモネ"、嫉妬のための無実の犠牲。それから、”スノードロップ"、あなたの死を望みます」
「鬼灯様、これはー?」
「これは、"水仙"ですね。花言葉は……偽りの愛」
「偽りの愛……」
「偽りの愛……」
座敷童子の二人が、互いの顔を見合わせる。真っ黒な夜闇を映したような瞳が四つ、鬼灯の横顔を写した。
「何ですか?」
「ねぇ、鬼灯様は愛を知ってるの?」
「愛、ですか?」
「うん」
「執着心のようなものではないかと想定しておりますが……」
「執着心? 鬼灯様も持ってるの?愛」
「いえ、私のこれは……」
本のページを開いたまま、鬼灯は風に揺れる金魚草群を見つめている。座敷童子たちは揺れるそれに合わせて身体を揺らしていた。
暫くの沈黙の後、鬼灯は静かに呟く。
「――こんなどす黒くて憎しみの篭った感情を愛とは呼べないでしょう」
「そうなの?」
「愛じゃないの?」
「ええ。ですから、私は――愛とは何かを知りません」
能面のような表情の下に、哀愁を宿した鬼は静かに目を伏せた。
***
「それは、愛だろ」
客で賑わう居酒屋の片隅で頬を赤く染めて泥酔している神獣は、いとも簡単にのたまった。
本日はノー残業デーとなり、閻魔庁から半ば追い出されるようにして帰宅を迫られた鬼灯は、視察ついでに訪れた衆合地獄の花街で一件の居酒屋に足を踏み入れた。
あわよくば最近の衆合地獄の様子などを店主に伺いながら、一杯飲んで帰ろうと考えていた。
しかし足を踏み入れた途端、絞まりの無い笑みを浮かべて泥酔していた白澤と鉢合わせてしまった。
いつもなら殴る蹴るの暴力を振るった後、放置して店を出る。だが、あろうことか白澤は宿敵であるはずの鬼灯を見るや否や、片手を挙げ隣席を勧めたのだった。
そうして肩を並べて飲んでいる最中、鬼灯はふいに座敷童子にした話を話題に出していた。
「は?」
「だから、それは愛だろ」
「あ?」
要領を得ない白澤に苛立ちを覚えて、彼の首を片手で鷲掴みにする。
今日の白澤は上機嫌なのか、鬼灯の眉間の皺が幾ら増えてもへらへらと笑っている。
「げほっ、ちょギブギブ」
「要点を簡潔に述べなさい」
「だからさ。正しくはお前が感じているそれも、愛だよ」
鬼灯は白澤を解放すると、彼の話を傾聴しながら酒と肴に舌鼓を打つ。
数度咳き込みながらも憤慨しない白澤は、完全に酔いで思考が働いていないようだ。
しかし酔っ払いにしては流暢な口ぶりで語り始めた。
「愛の形なんて、十人十色。一つじゃない。誰かを独り占めしたくて、想われないから憎んで、別の誰かを愛するその人に嫉妬する」
空いたグラスの淵を指先でなぞる白澤は、どこか遠くを見るように店内を眺めていた。忙しなく動き回る女性店員を目で追うわけでもなく、ただぼんやりと視線をさ迷わせている。しかしその一点が隣を見たとき、彼は人差し指で鬼灯の心臓近くを示した。
「立派な愛だろ」
したり顔の白澤は、テーブルに置いてあった空瓶を覗き込む。ちゃぽんと中身が揺れると、それをグラスに注ぎいれた。無色透明な水面に仏頂面が映りこんでいるが、白澤は気にせず続けた。
「お前は愛を知らないんじゃない。愛される喜びを知らないんだよ」
「私は、今まで関係を持った女性に愛されたいと願ったことはありませんが」
「それはお前が、その子を愛してないからだろ」
その台詞に鬼灯は瞠目する。
愛を知らないわけではなく、愛される喜びを知らない。考えても見なかった答えに、少々鼓動が揺れた。動揺を見て取られぬように、枡に入った酒で喉を潤す。
確かに愛されたいと願ったことはなかった。直属の上司や部下から与えられる尊敬の念は感じても、愛ではない。それは当然理解していた。しかし多少なりとも色事の経験があるにも関わらず、関係を持った相手に愛されたいと想ったことはない。
愛を知らないから、愛されたいと思った事はないのだと考えていた。だが、目の前の知識の神獣は、鬼灯が長年患っているこの感情を愛だと断定した。
「で? お前がそれ程の愛を向ける女の子はどこの誰?」
「……貴方に教える必要はないでしょう」
言える訳がない。この醜い執着心を抱いている相手は目の前に居るというのに、存在を明かすことなどできない。
鬼灯の心情などお構い無しに、白澤はテーブルの上に突っ伏して上目で見上げてくる。
「そりゃ、そうだけどさぁ~? 此処まで聞いちゃったら気になるじゃん」
「名は告げられません。先方は私を厭んでいるので」
「嫌われてるってこと? 珍しいね、お前は女の子に人気があるのに。僕の次にだけ、――どぶぉほっ!!」
相当酔いが回っている白澤の頭に手刀を食らわせる。勢いよくテーブルに顔面をのめりこませた白澤は、軽く目を回していた。これで少しは目が覚めるかと思いきや、間もなく復活した神は赤くなった鼻の頭を擦りながら唇を尖らせていた。
「ってぇーなぁ、もう……」
「私は絶対に愛されることはない。それは事実です」
「ふぅん……。告白もする前から諦めてるのって、お前らしくないけど」
白澤は頬杖をついて、横目にまったく表情を変えない鬼を見る。鬼灯もこれ以上は何も語るつもりはなく、ただ感情の読めない顔で酒を静かに口にしていた。
ふいに訪れた沈黙。剣呑な空気も酒で緩和され、珍しく二人の間に穏やかな時間が流れている。居酒屋の客足はちょうど頃合を迎えているらしく、扉を開閉する音が賑わいに混じって聞こえてきた。
「……白澤さん」
沈黙を破ったのは、鬼灯だった。
白澤は眠気が増してきたのか、沈黙の合間に何度か船を漕いでいた。
「んー……?」
間延びした声と共に重くなる瞼を擦りながら、白澤は鬼灯へと視線を傾ける。
能面のような表情は変わらずに、何を考えているのかわからないまま言葉の続きを待った。
「私を、愛してくれませんか?」
「――は?」
「私を、愛してくれませんか?」
二度も言われれば流石に目も覚める。眼前の鬼が何を言いたいのかわからず、飄々と酔いを楽しんでいた白澤の表情が苦いものに変わっていく。
被っていた白地の三角巾を解いて、乱暴に髪を掻き毟った。
「何でそうなるわけ? お前、僕に愛されたいの?」
「私は、愛される喜びを知りません」
「そうだね。だから、何」
「そんな私に愛される喜びとやらを教えていただけませんか、白澤さん」
かがちのような双眸には、一変の曇りも無い。遊び半分でも冗談でもなく、鬼灯は真剣に白澤へ教えを請うているのだ。
直向きな視線を向けられた白澤は、頭を抱えて長い溜息を吐き出した。
「僕は腐っても、神だ」
「知っています」
「神は、愛を乞われて拒んだりはできないんだよ」
博識の神は、教えを請われても拒めない。まして愛をくれといわれれば、それがどれだけ厭う宿敵だとしても拒めないのが神の理だった。
「――いいよ、教えてあげる」
白澤の薄紅の唇が弧を描いて、鬼灯を魅了する。
この男に向ける執着心が本当に愛なのか、否か。白澤に愛されれば、何かが分かる気がしていた。
しかし白澤の笑みが、大衆に向けるそれと同じに見えた。
(たとえそれが仮初でもいいのなら)
「お前に神としての愛をあげよう」
鬼灯は差し出された手を振り解くこともできずに、ただ違和感を胸に抱えたまま胸の奥にそれをしまいこんだのだった。
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