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第142話
あの夜のことは忘れてしまったのか。
どうして、馨にあんな提案をしたのか。
ホテルのラウンジ、カフェスペース。
打ち合わせが終わり、解散となった後。
声をかけてきたのは圭史さんからだった。
打ち合わせの間、圭史さんが僕にする態度は社会人としてのそれだった。
前回の訪問で僕たちが知らない仲ではないことは周りの人には知れたかもしれない。
でもそれがどういう関係なのかまでは分かりっこない。
彼の態度を見ていると、少し不安になるくらい。
打ち合わせには馨は同席しなかった。
元々臨時だったのだし、仕方のないことだ。
馨は心配して最後までついてくると言っていたが僕が断った。
課長に進言しに行こうとしていたのを止めた。
馨の気持ちは嬉しいけれど、プライベートの問題を仕事に持ち込みたくは無かった。
それに、今回は加藤さんも同席している。
二対二での話し合い、そこで何かが起こりようもない。
そんな風に思えたのは、自分の状態が安定しているという自覚もあったからだ。
最近はよく眠れている。
何事も無く打ち合わせは終わり次回の話をして解散。
圭史さんのことが気にならなくもなかったが、そのまま会社に戻る、そんな流れになるはずだった。
仕事終わりに会わないか。少し話がしたい。
そんな風に声をかけられて、頷いていたのは何も彼に流されたわけではない。
そんなやりとりに、僕たちが旧知だと知っている(思っている?)二人はだったら会社へはゆっくり戻ってくればいいと言った。もう今日の仕事はこれで終わりで、仕事に支障はないだろう? そんな風に言われて、僕は少し驚いた。
最初にそう言ったのは、圭史さんの同僚にあたる、元々僕が打ち合わせをしていた相手。そんな風に言ってもらえるなんて、どれだけ会社の規律が自由なのか、いや、それもあるかもしれないが圭史さんがそれだけ信用されているのだろう、そんな風に思い直した。
打ち合わせの間中、圭史さんは仕事の顔で僕の知らない顔で、できる男という空気を惜しげも無く示していて、頼りがいがあって、でもユーモアもあったり、同僚や僕たちを気に掛ける、そんな優しさもあってやっぱり圭史さんだ、なんて。
そんな風に思っていたのは、僕だけではなく加藤さんもそうだったみたいだ。課長にはうまく言っておく、なんて気を回して協力してくれたのは、圭史さんの持つ人柄というかオーラがそうさせたんだって僕は思った。
僕の会社の業務は普段そこまで融通を利かせて動くとかそういう感じでは無い。
僕が圭史さんの言葉に頷いたのは、彼らの気遣いを無駄にしたくなかったことと、変に断って色々と勘繰られたくないことと、あとは僕も話したいと思っていたからだ。圭史さんのことが知りたい。
二人きりになることに躊躇いが無かったかというと嘘になるが、今が夜じゃないこと、この後会社に戻ることが決まっていること、そういった状況が僕を後押しした。
そういうわけで、話をする、はずだったのだが。
「話をするんじゃ…」
圭史さんのほうから話をしたいと言ってきたのに。
いっこうに何も言わない圭史さんにしびれをきらす。
「……元気そうだ」
「は?」
唐突にそんなことを言うものだから、僕は思わず変な声を出してしまった。
周囲の視線を感じて小さくなる。
それにくすりと笑う圭史さんに顔が赤くなる。
「圭史さんが変なこと言うから」
少しむくれてそう言うと、圭史さんは真面目な顔で言う。
「何もおかしなことを言ったつもりはないが」
その言葉の意図がよく分からなくて、どんな顔をしていいのか分からない。
そんな僕の戸惑いを無視して、圭史さんは目を細める。
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