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月がきれいですね

 今日も定時上がりなんて夢のまた夢で、時計の針はとうに八時を過ぎている。特別俺の要領が悪いというわけではない。たぶん業務量が多すぎるんだ。  隣の課はそろそろ目処がたったと見えて、一人また一人と帰ってゆく。  ああ、あいつも帰ってゆく。    一年後輩のあいつとはなかなか距離が縮まない。たかが一年、されど一年。同期か先輩かでは、心の距離間は雲泥の差だ。入社してきた時一目惚れしたあいつは、正直どんなやつかよく知らない。だけどなんにも知らないのに惚れ込んでしまうだけの容姿で、要するに見た目が非常にタイプだった。  二年経っても奴については何もわからず、距離が縮まる様子もない。行き帰りが一緒になりでもすれば、奴も喫煙者だったなら、話すチャンスもあったろうに。  ようやく帰れる。  仕事が終わったわけではない。今日中に片付けることを諦めただけだ。明日は早朝から出社しないと。  ロッカーで荷物をとり、カードキーをかざして門を出た。当然とっぷりと日は暮れて、綺麗な夜空が広がっている。そういえば、もう秋の気配だ。月がいちばん綺麗に見える頃なんだっけ。  いつも駅に続く商店街を通る。といっても、俺が通る頃にはとっくに全店シャッターが下りているけど。それでも派手な街灯が等間隔で並び、防犯面でその道を選んでいる。ひったくりに遭ったりしたくないし。  だけど今夜はほんのきまぐれで、商店街の一本裏の道を通ってみようと思いたった。本当になんとなく、だ。強いていえば、明るい道よりも暗い道の方が、月明かりや星空がより映えると思ったから、だろうか。  ふと立ち止まって、空を見上げる。  なんだかいいことないなあ。  残業三昧の日々、の割に報われない仕事…… 「月がきれいですね」  その声に我に返った。振り返ると、奴だ。 「お、おう、おつかれ」  いくらか狼狽えながら答えると、奴は人懐こい笑顔を浮かべた。 「秋って感じですよねえ」  気づくと俺の横に立っている。 「腹減ったな。一杯付き合えよ」 「ご馳走になります」  駅前の焼き鳥屋で酒を酌み交わした。俺にとっては祝杯ものだ。奴とついにはじめて、まともな会話を交わした。注文する焼き鳥から酒から、休みの日の過ごし方、近代文学が好きなところまで、俺たちは何もかも似ていた。当然話は弾み、小さな騒がしい居酒屋にはおよそ似つかわしくない文学論を戦わせたりもした。 「ご馳走様でした」 「ああ、また明日な」  残念ながら電車は互いに反対方向なので、改札を抜けたところで別れることに。  ホームに着いたら向かいのホームにあいつがいて、目のやり場に困る。所在なく突っ立っていたら、にっこり笑って手を振ってきた。  電車に乗ってからも、降りてからも、その笑顔が忘れられなくて。  この夜間違いなく、俺の中であいつは『気になる後輩』から『片思いの相手』に昇格した。ようやく念願の会話ができて、距離が縮まって、この上ない贅沢だったはずなのに、もっともっと知りたい、話したいと思うようになってしまった。人間の欲とは底なしだ。  もう一度、月を見上げる。  今夜のとびきりの偶然は、この月のおかげだ。俺が月の美しさに魅せられて、気まぐれを起こしていつもと違う道を通ったから起こった奇跡、というとちょっとオーバーか。  「月がきれいですね」  あいつの声がまた頭の中で響く。月はずっときれいだったけど、あいつと見上げた月はもっときれいだった気がする。  この夜に、月が傾く前のあのタイミングで、出会えてよかった。 【おわり】

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