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satie

「昨日加瀬から電話がきた」  ドアごしに聞こえるマスターの声と、その名前に僕の足は動かなくなった。 「出張か?俺にはきてないぜ」  重さんの声が応える。 「やっぱ俺にだけか、仁のとこはどうなんだろうな」 「知らないけど、なんて?また子供でもできた?」 「いやその反対。別れたって、離婚したって」  頭が冷えて固まる。ここから離れるべきなのはわかっているのに、思考と体がつながらない。 「ええ?なんでそれをお前にいってくる?おい、まさか」 「いや、智のことは何も言ってなかったし、俺も言いたくなかったから、聞かれなくて安心した」 「そうか」 「うん」 「絶対智に言うなよ!」 「言うわけないだろう!」  バタン  ドアが勢いよく開いて、僕は重さんと向かい合った。僕と同じように動けなくなった重さんと、苦虫をかみつぶしたようなマスターと目が合った。 「すいません。ちょっと早くきすぎて……立ち聞きするつもりはなかったんですが聞こえちゃって。本当に挨拶しにきただけなんです」 「いや、智が悪いわけじゃないし」  重さんがコーヒーマグを僕の前に置いてくれた。 「ありがとうございます。かえって気を遣わせてしまって。ごめんなさい」  僕たち3人はオープン前の店内のテーブルに移動してコーヒーを啜っている。『まあ、とりあえずコーヒーでも』というマスターの提案に反対する理由もなかったし、少し落ち着きたかった。 「智に謝られるとかえって申し訳ないよ。重の言うように智が悪いわけじゃないし。もともと加瀬に引き合わせたのが俺なのに、なんか今回もこんなことになっちゃってさ。とことん俺ってひどくない?なあ、重」 「でもさ、加瀬が離婚したからってこっちに帰ってくるわけでもあるまいし。おまけに智だって今更だろう。だから俺らが深刻になることでもないって思うんだけど、どう?」 「どう?って。まあね、こっちに帰ってくるとか、そんなことは言ってなかった」 「え?ミサキって、札幌の人なんですか?」  二人の目が僕を見る。「え?」という同じ顔が並んでいて、なんだか少し可笑しくなった僕は微笑んだ。 「重さんの言うとおり「今更」なんですけど。僕ミサキの携帯もメアドも誕生日も住所も何もしらないんですよ。札幌支社がある大阪の会社に勤めていて、結婚して子供がいる。好きな食べ物も何もしりません。だってマスターと仁さんに聞くまで、本名すらしらなかったんです。その名前すらピンとこないですけどね」 「マジかよ、それ。久はそれ知ってんの?なんか知らないの俺だけ?」  重さんが手のひらで顔半分を覆いながら口を開いた。マスターをつつきながら。 「智が加瀬の名前を知らなかったことだけだよ。そんなに何も知らないなんて思わないじゃないか。加瀬も智のこと知らないのか?」 「そうですね、僕の名前と勤めている店と、なんで料理人になりたいのか。あと当時付き合っていた相手の下の名前ぐらいですかね。なんか今更、今更ばっかり言ってますけど。こうやって並べるとナンなんでしょうね。笑うしかないって感じです」 「それなのにあんな色気ダダ漏れみたいな有様だったわけ?」 「おい!久。お前品なさすぎ!」 「あ……ゴメン智」  僕は本格的におかしくなって、吹き出してしまった。基本情報がなさすぎだけれど、当時はそんなこと気にもならなかった。それに知ってしまったら後戻りできなくなりそうだった。僕たちには何も残されていなかったし、どこかに行くこともできないことは最初からわかっていたのだから。僕たちを結びつけるものは何も存在しなかった。 「で、智。大丈夫か?」 「なにがですか?」 「離婚とか……な」  言いよどむ重さんに本当に申し訳なく思う。 「いやビックリしただけですから。少し動揺もしましたけど、でも大丈夫ですよ。僕はミサキに囚われていませんし、時間も味方してくれました。僕は今幸せです。マスターや重さんにこんなに気を使ってもらえるくらい大事に思ってもらっていますからね」  本当だった。僕は大事にされている。仕事をさせてもらって、お給料をもらっている。僕が将来目指すもののために重さんもマスターも包み欠かさず教えてくれる。僕は二人が大好きだから、心配してもらってうれしかった。 「お前は特別だからな」  重さんが少し照れくさそうにテーブルを見ながら呟く。それを横目に見ながらマスターが頬杖をつきながら言った。 「智、幸せってことはだ、あのスーパーリーマンか?相手は」 「誰だ、それ。なんだそのリーマンは」  重さん以上に僕だって初めて聞きましたよ、そんなネーミング。思い当たる人間は一人いるけれど。 「店にいるときの智の鎧をはぎ取れるような男だよ。そんなことできるのは超デキるリーマンしかいないだろう。ちゃんと言うんだぞ、智が気にしていないってことを含めてミサキの離婚」 「なんでリーマンだってわかるんだよ」  子供っぽい重さんの問いに僕はまた吹き出した。 「んなもん、あのスーツの着こなしと身のこなしはリーマンだよ!」 「ふ~~ん。それが智の彼氏なわけか」  椅子の背もたれに体をもたせ掛けた重さんがニヤニヤしながら僕を見る。恰好の獲物を見つけた捕食動物みたいな重さんが怖い。 「重さん何を企んでいるんです?」  恐る恐る聞くと、盛大な笑い声とともに返事が返ってきた。 「よし、それじゃあ、加瀬の出る幕はないな。一つ問題が解決したが、新たな問題が発生したぞ、久」 「え!なに!問題って?お前んとこに加瀬なんか言ってきたのか?」 「加瀬は出る幕ないっていっただろうが。智だよ、智に特別の相手がいるってわかったらだ、うちの常連さんたちと新規のお客様、どちらも悲しむだろう?」 「まあな、多方面に影響がでる」 「そんなこといったらアユちゃんだって、辞めるって言い出すかもしれない」 「重さん?マスター?どういう方向で話をされているのですか?」 「『スーパーリーマン』だと相手が男だとばれる。これはうちの中でも7割を占める女性客にダメージを与える、それってこの店にとって大打撃だろ?」 「たしかに。それはまずい」 「いや、ですから!マスター?重さん?」  僕の問いかけは完全に無視された。 「智の相手が男だとわかって、そっち方面の男子がおしかけてきても困る。仁のとことかぶってあいつに何されるかわからん。ああみえて仁はシビアな男だからな」 「たしかにそれはまずいな、重。仁はまずい。そうだな……ハニーってのはどうだ?」 「ハニー?」 「うちのハニーぐらいにしておけば、犬か猫かと勝手に思う人間もいるし、ハニーが男か女かも好きなように解釈できるだろ。『うちのハニーも大好きなんです。このペパロニ』智がそう言っても相手がどんな風なのか妄想可能だ。そして智が『ハニーは人間とは限りませんしね』なんていってニッコリすればペットかもって思うかも。どうだ、スーパーリーマンよりよくないか?智ハニーっていってみろ」 「げ……」  あんな僕よりでかい、あの男をハニーと?いやたしかに色も白いし目も茶色だ。クールだけどキュートな面も持っているし、僕を甘やかす腕はプロ級だ。そもそもそうやって昨晩僕をさんざん甘やかしたせいで、ここに早目にきてしまったのだ。うれしくなってウキウキしたら、この有様っていうのが想定外だけど。ハニー? 「そこで百面相してないで言ってみろ!」  重さんには逆らえない。 「うちのハ……ニー」 「これはこれで悪くないな。うん、悪くない」マスター 「俺まだそのハニーに逢ってないから、今度店に連れてくるように」重さん  いいようにおもちゃにされた僕だったけれど、離婚の爆弾は僕にダメージを与えることもなく、心の中の欠片が少し光っただけだ。独りになる選択をしたのは加瀬陵ではなく『ミサキ』になるためなんだろうか。そんなことを少しだけ考えた。  ミサキの事を考えたのがあまりに久しぶりだったので、僕はそのことになんだか安心した。 宮さんの顔を思い浮かべながら。

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