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「なにを見てるの?」  僕はその声を待っていたことを隠そうとして無言になる。美咲は何も言わない、いつもそうだ。僕が口を開くまでずっと待っている。  横に座る温かい体温を感じて僕は少しだけクラクラした。ずっと一緒で、一緒があたりまえで、この先もそれは変わらないのに、僕だけ少しおかしい。最近ドキドキする。  美咲の家にはお父さんしかいない。僕の家にはおばあちゃんとおじいちゃんがいる。お父さんもお母さんはいない。  記憶にあるずっと小さい頃から一緒にいるのは美咲だった。真っ黒い髪と瞳の僕たちはよく姉弟に間違えられたけれど、美咲のことを姉のようだと思ったことは一度もない。美咲は美咲で僕にとって一番確かなもの。 「りょう、いこっか」  美咲の一言で僕は腰をあげ、仕方ないなという顔をしながら後ろに続く。  いつも二人で絵を描いて時間を過ごしていた。美咲は絵本作家になりたいので、時間があればいつも画用紙に向かっていた。  もう中学生なのに、本棚に絵本ばかりが増えていくのをみて僕が変だと言ったら、美咲が僕に教えてくれた。 「りょう、分厚い本にだってない世界が絵本にはあるのよ。私こういうのを描く人になりたいの」  美咲の画用紙は、何を描いたか聞かないとわからないけれど、きれいな色があふれていた。 空だったり、花だったりを映したというそれは、とても優しくて。僕は思った。絵はかいた人が少し溶け出すものなのだと。  今日もおばあちゃんと「女同士の話」とやらをしに奥にこもっている。美咲は中学生になってから、そんな時間を過ごすことが多くなった。女同士になにがあるかしらないけれど、僕は邪魔みたいなので、おとなしくしている。  美咲が何も言わずに僕の隣に座ってくれるのを、ずっと待つ。僕はいつも美咲を待っている。黙って座って、僕に寄り添う体温をじっと待つ。  ある日から美咲の姿が消えた。  学校から帰っても美咲は来てくれない。おばあちゃんと奥にこもることもない。聞いちゃいけないことだとわかった。  僕は普通の家に育った子供ではないから「大人の話」が始まったら黙ることを知っている。誰も何も美咲のことを話さないし、僕に言わないってことは……そういうことだ。  蟻が巣の入り口で右往左往しているのを一人で眺める。枝の先でつついて少しだけ決壊する入口に蟻が群がった。なんでそんなに頑張るんだろうな、ありんこ。  そしてまた埋まらない程度に少し穴を崩す。溢れ出す蟻を見ていると、わけがわからないままに何とかしようとする蟻と僕が重なる。  美咲はどこにいったんだろう。いつになったら誰がおしえてくれるのだろう。  僕は背中に美咲を感じる。美咲は黙って僕の隣に座って何もいわない。僕は蟻の巣をつついていた枝を放り投げて美咲の手を握った。はじめて美咲の手を違う意味で握った。 「りょう?」 「……やっと帰って来た……ずっと待っていたんだ」 「私ね、明日引っ越すの」  美咲がいなくなる?意味がわからない。 「どこにいくの?」  美咲は黙っている 「美咲?あのね?いくつになったら、追いつける?」 「追いつく?」 「僕がいくつになれば、美咲と同じ場所にいられるのかってことだよ」 「4こ違うってことはね、私が先に中学に行ってるでしょ?でもりょうが中学にくる頃には私は高校生になっちゃってるね。あるとしたら大学のころかな?」  何年先かの大学生を心待ちにした。僕はそこで美咲を捕まえる。ずっとそばにいて、ずっと横にいて、ずっとずっと一緒にいて、大学生になったら本当に僕と美咲は同じになるんだと。 「ごめん、りょう」 「なにが?」 「私大学生になれないかもしれない」  そこから僕の目に映るものは、何も描かれていない画用紙のように、うすっぺらいものに変わった。  毎日病室の美咲に逢いにいく。 「私を忘れないで、覚えていて」  僕は毎回反復した。それで願いがかなうなら、美咲がここを出られるのなら。美咲の要求はいつしか懇願になり、忘れないでと泣くようになった。  こわかったんだと思う。  11歳の僕には毎日繰り返される叫びは心の楔になった。 『忘れないよ。美咲はここにいる。僕と一緒にいる。大学生になるまで待っててよ、迎えにいくから』  どれだけそれを願ったら、何回言葉にしたら神様は美咲を僕の傍に留めてくれる?忘れないでと泣く君に僕は無防備で、美咲と同じくらい怖かった。  だから僕らは手を握り合って怖さが半減すると信じた。でも……怖さが増すだけだった。  どんどん美咲の中から美咲が減っていく。涙をこぼすことはあっても、本当に泣くことがなくなった。僕が手を握っても、かすかに何本かの指が動くだけ。  そして君がいなくなった。  加瀬陵は存在しなくなった……美咲を生かすために。                                頬にあたる暖かな空気を感じて、自分が眠っていたことに気がついた。随分昔のことを夢に見ていた。姿見に映りこむ自分の目が赤い。少し泣いたのかもしれない。昨日のワインのせいにしようか。  勢いよくドアがあいて、ボールのように弾む身体が僕に馬乗りになる。 「りょう!朝だよ!」  生命の権化みたいな物体を抱きしめる、朝の儀式。 「おはよう、千尋」  千尋は僕の目の前で目をつぶる。だから鼻のあたまにキスをする。千尋はくすぐったそうに笑って言うんだ、毎回。 「りょうのお嫁さんにしてね!」  僕はきまってトモキの顔を思い出す。鼻のあたまを舐めた時のことを……「普通」の僕たちの時間のことを。だから言うんだ、こんな小さい子にむかって。 「それはできないよ、千尋」  ぶううううと口を尖らして僕に言う。 「千尋はそうしたいんだもん!」 「そっか」  そして僕らは抱き合う。こんな小さな子が僕の存在を未来に置いてくれている。その嬉しさに、ときたま泣けてくる。 「千尋、大きくなっても同じ気持ちなら、僕に同じことを言って」  4歳になろうとしているこの子にどこまで伝わっているのだろうか。大人になった時、覚えてくれているだろうか。 「千尋、もうちょっとだけ寝かせて」  僕は小さい体を抱き寄せて体温の高さを楽しむ。  僕はこれらを全部捨てて帰るんだ。ようやく……の時がきた。

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