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すぐ傍にいる 9
「えっそんなに急にチェンジですか……今日の午後からって、そんな無茶な」
「先方のたっての希望なんだよ。それに君の履歴書を確認したら日本での前職は製薬会社じゃないか。君なら医療や医薬用語に詳しいだろう。君しかいないんだよ。ホテルの命運が君にかかっているといっても過言じゃない。とにかくKaiと至急戻って来てくれ」
部長の話は有無を言わせないものだった。
「はぁ……しょうがないのか」
気が進まなくて断った仕事なのに、結局自分に舞い戻ってきてしまった。松本さんに悪いことしたな。俺の我が儘で彼に恥をかかせてしまったのではないだろうか。
「……分かりました。すぐに戻ります」
通話が終わってもそのまま携帯を握りしめ、すぐに帰る気分にはならなかった。なんだか気が重い。何故だろう。
「どうした? 暗い顔しているぞ? 」
ペットボトルを手に持ったKaiに声を掛けられ、はっと我に返った。
「あっkai、実は今、部長から電話があって、午後から通訳交代だって」
「えっ? なんでだよ。製薬会社の方? だって松本さんが担当しているじゃないか」
「……だよね。松本さんの方が俺よりベテランなのに」
「あーあ、今から洋とデートだったのに、悔しいな~」
そう言いながらKaiは悔しそうにおにぎりを俺の手から奪い取り、一気にかぶりついた。
「おいっkaiっ!そんな勢いで食べると喉に詰まらすぞ」
「美味しいぜ!さっ洋、行くぞ。お前も歩きながら食え。戻ったらたぶん昼飯食う暇ないからな」
「そうだな。ここはまた来よう。今度は丈も誘って皆でゆっくり」
「はいはい。お邪魔になるよ~」
芝生の緑が眩しい美しい公園を後に、俺たちはホテルへ戻った。
****
「おい鷹野、お前今から一時間昼休憩取ってこい」
「了解。じゃあ次は十三時に交代しよう」
八時からずっと立ちっぱなしで、やっぱり少し疲れたな。個人のボディガードをするのは、今回が初めてで緊張もあるのだろう。明日が本番だっていうのに、こんなことでは駄目だ。気合いをいれなくては。
俺はホテルのデリでサンドイッチとコーヒーを購入し中庭へ出た。ホテルの中庭はちょっとした公園になっていて、点々とベンチも置かれている。そのベンチに座りサンドイッチを頬張りながら、プライベートのスマホを取り出す。
真っ先に見るのは横浜で撮った涼の写真だ。にこやかに微笑む品のある美しい顔。洋よりも明るい快活な笑顔だが、やっぱり洋とそっくりな顔だな。
「涼、元気にしてるか。まだ二日目なのにもうお前に会いたいよ」
実は俺がこのソウルで洋に会いたいのには、二つの理由がある。
一つ目は……あの時俺が丈と進むことへ背中を押した洋が……今幸せにしているかを、この目でしっかり確認したい。
二つ目は……涼とのことを洋にきちんと話したい。
まだ……俺の心の中に洋の面影が仄かにちらついているのは認める。それは涼も気が付いている。だからこそ、この淡いほのかな気持ちとは、もう別れないといけない。
何故なら俺のもとには、涼がやってきてくれたからだ。
洋に涼と付き合っていることを話すことで、未だしつこく俺の心の奥に住み着いている洋への微かな恋心に決着をつけたい。涼も多分それを望んでいると思う。
こんな揺らいだ俺だから、涼ももう一歩踏み出せないでいる気がする。早く涼のすべてを俺のものにしたい。そんな男の身勝手な欲求に俺は埋もれている、駄目な奴さ。
****
Kaiと一緒にホテルに舞い戻った。松本さんはまだ製薬会社と打ち合わせ中というので、ホテルの客室前に行くと、部長と松本さんが神妙な顔で立っていた。
「松本さんすみません、俺のせいです」
「洋くん……いや違うよ。僕の勉強不足だから気にしないでいいよ」
松本さんは通訳の先輩なのにすごく優しい。いつも俺のことを気にかけてくれて、さり気ない心配りが出来る大人の男性だ。
「そんな……」
「崔加くん、じゃあそろそろいいかな? 午後からの明日の国際会議の打ち合わせを君が担当してくれ。重役は部屋の中にいるから。悪いが私は他の仕事があるから後は任せたよ」
「……はい」
「松本さん気を落とすなって、さぁこっちも戻らないとスミス氏のランチの時間が終わってしまう」
「あっはい。Kaiさんよろしくお願いします」
「洋は、大丈夫だよな? ここには沢山ボディガードもいるから、俺がいなくても」
「当たり前だ!」
「じゃあ頑張れよ。さぁ松本さん、急いで! 走れる?」
松本さんは、Kaiに手を引かれて連れて行かれた。なんかその光景が少し微笑ましく感じた。さぁ俺も仕事をしないとな。
トントンー
ノックをして部屋に入る。
製薬会社の重役がホテルの大きな窓を眺めて座っている。俺に背を向けているので顔がよく見えないが、恰幅のいい中年の男性のようだ。煙草のにおいが鼻につく。
「はじめまして、午後から通訳を交代しました。崔加(さいが)といいます。よろしくお願いします」
「崔加だって?」
「……はい」
「崔加 洋か……君は」
重役がゆっくりと振り向いた。
「あっ…」
その顔を真正面から捉え、俺の背筋は凍りついた。
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