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番外編 崔加氏の独白 5
夕は必ずここにやって来る。
そう確信にも似た気持ちが沸き起こっている。あと少しで約束の時刻だ。流石にこんな横暴な私でも、緊張で変な汗が出てくるものだな。
この一週間は怒涛のような日々だった。突然の離婚を切り出され泣いて縋る妻を無理矢理金の力でねじ伏せ、半ば強引に離婚届に判を押させた。
息子・陸の親権は妻に譲り、教育費や生活費、慰謝料も充分に与え、住んでいた家ごと妻にやってきた。
私には夕がいればいい。妻や子供との淡い思い出が残っている家は、いらなかった。
今日から新しい人生だ。
本来の道へ戻るだけだ。
そう思うと何も怖いものはなかった。
私の両親は数年前に相次いで病で亡くなり、会社の経営もすべて手中に収めていた。
夕の家へ婿入りするはずだった三男の私が一番商売の才覚があったとは皮肉なことだが、二人の兄は子会社へ追い出した。
親戚には何も言わせない。我が家が本家であり絶対だから。
妻の親は所詮下請け会社の社長に過ぎない。わが社との取引がなくなることが何よりの痛手だから、それをちらつかせて有無を言わせなかった。
すべてのぞみ通り上手くいった。あとはこの腕に夕を抱くだけ。
****
躊躇いがちな戸を叩く音。ドアを開けると薄紫のワンピースにほっそりとした躰を包んだ夕が立っていた。
芳しい香りと少女のような可憐さ。私が求めてやまなかったのは彼女だ。
「来てくれたのか」
「……はい」
夕の手首を掴んでベッドへ座らせた。私も横に座り、夕の細い顎を掴んで上を向かせた。あの日一度触れただけの桜貝のように上品な色合いの唇は、薄く開いて私を誘っているように見えた。
「分かっているな。私と結婚するということが何を意味するか。その代り、私は君と君の息子を守るよ」
「崔加さん……」
「なんだ?」
「もしも……私がいなくなっても洋のことを守ってくださいます?」
「当たり前だ。息子さんは君にそっくりだから同じように愛してやる」
「……愛する?」
夕が不思議そうな顔をした。私もその意味の真意を掴みかねた。
あの夕のように美しい少年ならば、夕の様に愛せると思った。漠然とそう思っただけだった。
「大丈夫だ。夕、結婚しよう。印鑑を持って来るように言ってあったろう。さぁ婚姻届けに印を押してくれ」
「……えっ今すぐ?」
「それが契約だよ。安心しろ。もう働かなくていい。綺麗な服もいくらでも買ってやる。息子さんにもいい教育を受けさせよう。乗馬やテニスも教えてやろう。遠回りしたが今日から私たちは夫婦になるんだよ」
「……」
印は押された。
これで夕は私のものだ。
歓びで気が狂いそうだ。
私はその晩……滅茶苦茶に夕を抱いた。
夕の躰は子供を産んだとは思えないほど、ほっそりと滑らかだった。主人を失ってから誰の跡もつけられていないことに喜びを感じ、躰中に私の印をつけた。
息も絶え絶えの夕の眼は、どこか虚ろだった。
****
夕の息子の洋にその一週間後、初めて対面した。
洋は、ハッと息を呑む程の美しさだった。
写真よりもはるかに美しい。もしかしたら夕よりも美しいのかもしれない。
私にそういう趣味はないはずだが、その手の人間の恰好の餌食になりそうな危うさを持っていると思った。まだ十一歳のあどけなさが天使のように無垢だ。その羽をむしり取ってやりたいという征服欲みたいなものが芽生えた。
その反面……私はこの息子なら、夕と同じように愛せる。今度こそ汚れないように大切に出来るとも思った。
いずれにせよ新たな楽しみも見つけ、上機嫌だった。
それからの一年は夢のような日々だった。久しぶりの贅沢な生活に、夕はすっかり昔を思い出したのか、幸せそうに笑ってくれた。
ふんっやっぱり所詮お嬢様育ちの夕に、あんな駆け落ち生活は無理だったんだ。死んだ奴には気の毒だが、お前じゃ夕を幸せにできなかったな。心の中で、私はせせら笑っていた。
そして夕も所詮現金な女だとも思った。
夕と過ごす毎日の中で、私の心の中には常に天使と悪魔が共存していた。
若い頃、夕を傷つけたお詫びをしたい。もう二度と同じ間違いをしたくない。夕を宝物のように大切にしてやりたい。守ってやりたい。
そう真摯に想う反面……
この女はこうも簡単に前の主人を忘れられるのか。お嬢様育ちで人の心が読めない呑気な奴だ。息子のために再婚しただけなんじゃないか。
そう疑う心……
悩ましい日々だった。
どこか絵に描いたような幸せな日々は、なかなか現実味を帯びてこなかった。
だがそんな日々にも、終止符が打たれる時がやってきた。
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