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番外編 崔加氏の独白 6

「余命一年……」  夕は緊急手術をしたものの、もう癌の末期症状で手遅れだった。  医者からの余命宣告は残酷だった。なんだってそんなに悪くなるまで放置していたのか。  夕は自分で気付いていなかったのか。麻酔で眠っている夕の苦し気な寝顔を見て後悔した。  食が細いのも顔色が優れないのも知っていた。なのに……こんな深刻な事態になっていたとは気が付いてやれなかった。  心がドクドクと暴れ乱れてくる。  憤り  悲しみ  嘆き  結局、無理矢理奪ったものは長く留めておくことは出来ないのか。なんだか袋一杯に手に入れたと思った幸せが、実は底に小さな穴が開いていて、そこから気が付かないうちに少しずつ零れ落ちていたような虚しい気分だ。  今から小学校へ洋を迎えに行かねばならない。一体どんな顔で会えばいいのか。  車の中で洋は黙ったままだ。とうとう予期していたことが現実に起きてしまった。そんな表情を感じ取ることが出来た。 ※『佳人薄命』  全くその言葉の通りだ。美しすぎる夕にぴったりだ。  洋にもすぐに母親の余命を知らせた。隠し通せるものではないと思ったからだ。それから奇妙な二人暮らしが始まることになったのだ。 ****  やがて夕は日に日に衰弱していった。どんな先進の高度医療も効き目はなかった。治療費には糸目をつけなかった。なのに効果はなく悪化していくばかり。  召されるのを待つのは、辛く長いものだった。  もう意識もない夕にそっと話しかけた。 「夕……起きているか」 「……」  小さな呼吸が聞こえたかどうか。  桜が散るのと同時だった。  夕はたった三十五歳で、人生の幕を本当にひっそりとおろした。  満開の桜は昨夜の雨で大部分が散ってしまった。それでも名残惜しそうに、ひらひらと病室の窓の外に花びらが舞っていた。それが旅立っていく、儚い魂のように見えて胸が痛かった。  夕……あっという間の一年だったな。結局何も語ってもらえなかった。  「愛している」その一言があれば、違っただろうか。  私も夕も互いに何も語らなかった。なんという奇妙な束の間の夫婦だったのだろう。そして手元に残ったのは洋だけだ。私は夕が生きていた頃と何も変わらず二人でそのまま暮らしていくことにした。  中学生になった洋。  出会った頃は天使のような子供だったのに、ここ数年で学ランの詰襟が似合う憂いのある少年になった。そんな美しい義理の息子との二人きりの生活。  私の身勝手で夕のように不幸にしたくない、大切に育てたいという気持ちと、私を裏切って逝ってしまった夕への恨みの捌け口にしてやりたいという負の感情が入り混ざって、心をざわつかす存在だ。  夕の若い頃に瓜二つなのが罪だ。彼は、私の心を乱すだけの存在だった。  あの日夕と誓った言葉を思い出す。 「もしも私がいなくなっても洋のことを守ってくださいます?」 「当たり前だ。息子さんは君にそっくりだから同じように愛してやる」  愛することの意味。  洋が成長すればするほど悩ましくなってきている。  親としての愛の他に、自分の中に形の違う愛が存在することに気が付いてしまったから。 ※ 佳人薄命……美人はとかく薄幸であること。美人は美しく生まれついたため数奇な運命にあって、とかく幸せな一生が送れないものであること。また、美人はとかく短命であること

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