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鏡の世界 3

 結局俺は、流さんに寺内を案内してもらった。  山寺らしく広い敷地に本堂や離れなどいくつかの家屋が点在していて、それぞれが長い渡り廊下でつながっていた。野や山に近い自然の美しさ溢れる庭園には梅の木も沢山あり、もう少し経てばこの冬枯れの景色に色が添えられて、また一段と風情が出ることだろう。 「ここが月影庵だよ」  案内された部屋に入ると、丈のお父さんと翠さんが再び座っていた。二人は手に筆を握り写経の続きをしているようだった。 「洋くん、もう具合はいいのか。心配したよ。さぁここに座って」 「あっはい。さっきはすみません」  翠さんに促され流さんと丈と共に座布団に座り、部屋をぐるりと見回すと、満月のような円窓からは冬枯れの水墨画のような景色が見えていた。そして床の間の掛け軸には和歌が書かれていたので、その流れるような文字を目で追ってみた。 『月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ』 「洋くん、この歌の意味分かる?」  翠さんに話しかけられて、緊張がぐっと増して来た。 「えっ……いえ」 「この和歌はね、法然上人のご真作といわれる和歌二十三首のうちでも代表的な一首で、鎌倉時代の勅撰和歌集『続千載和歌集』にも選ばれているものだよ。それに、ほらここを見てごらん」  指さされた掛け軸の下を見つめると、花のような月のような紋が小さく入っていた。 「あっ」 「これはね、浄土宗の宗紋であって、『月影杏葉(つきかげぎょよう)』と呼ばれるものだ。この月影寺は、浄土宗で月と深く関係があるからね」 「月ですか」  『月』という言葉にどきりとした。だって……俺も月と深く関わりを持っているから。 あの過去との交わりの日々を思い出してしまう。  その時、隣に座っていた流さんの手が、俺の胸元の月輪にそっと触れた。この月輪。そうか、さっき着替えさせてもらった時に気が付いたのだろう。 「あっ」 「これいいね。月の形だよね」  翠さんも月輪をじっと見つめ、なるほどと納得した表情を浮かべて話を続けた。 「洋くん、少し難しい話になるが聞いて欲しい。仏教で『光明遍照十方世界といえる心を』という言葉があってね、つまり阿弥陀仏の光明は全世界をあまねく照らし、どんな人をも救い取るという慈悲の心を歌われたものなんだ。しかし月が照り映えていても見ようとしない人には、阿弥陀仏の光明にも気がつかないってわけだよ。逆に月のない夜でも心に月を思い浮かべて月光を宿すこともできるということでもある。今、洋くんの胸元の月輪を見て、この歌をぜひ教えてあげたくなったよ」  『月のない夜でも……心に月を思い浮かべて月光を宿すこともできる』という言葉に、はっとした。  五年前、義父に犯されるという耐えがたい現実を受け入れられず、暗黒に閉じこもった俺には、空に照る月の存在を感じることが出来ない時期があった。もう何もかも嫌になってこの世から消えてなくなりたいとさえ思っていた。  でもあの時、丈が俺の月となり俺に手を差し伸べてくれた。その後それはいつの時代でも変わらない出来事だったことを知って更に胸が熱くなったものだ。  平安時代の洋月には丈の中将がいた。  あの王朝時代のヨウにはジョウがいた。  みんなみんな……月のない夜に月を思い浮かべ月光を宿す様に、暗く閉ざした心を月明りのように照らしてくれる大切な人がいた。 「あの……お父さん、翠さん、流さん……聞いてもいいですか」 「なんだい? 」 「俺のこと……本当に受け入れてもらえるのですか」 「もちろんだ」 「丈さんの側にいても……?」 「もちろんさ」  三人の揃った声が、月影庵内に力強く響いた。  それからずっと黙って俺たちの会話を聞いていた丈のお父さんの慈愛に満ちた手によって、優しく頭を撫でられた。じんわりとした父という人の温もりに、思わず泣きそうになってしまう。 「うっ……」 「洋くん、泣くなよ。さっきから言っているだろう、俺は最初から大歓迎さ」  流さんが明るく話しかけてくれ、翠さんは穏やかな微笑みを浮かべてくれている。 「ありがとうございます。俺……こんな展開……予想していなかった」 「洋、本当に良かったな」  丈も隣で、今まで見たことがない位嬉しそうに顔を綻ばしていた。 「へぇ我が弟のこんなに嬉しそうな顔、見たことなかったな。ねぇ父さん」 「あぁ息子の幸せは、とても嬉しいものだ」

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