575 / 1585

花の咲く音 13

『夕凪の空 京の香り』白き花と夏の庭12とリンクしています。 ………  北鎌倉、寺の裏山の渓谷。  その小さな川底へと、俺の躰は吸い込まれていった。  苦しい!  息が出来ない!  水が重たい凶器となって襲い掛かって来る。  もがけばもがくほど、沈む躰。  浮かばないといけない。  そう思う気持ちとは裏腹に、凄い勢いで一気に落下していく。  もう駄目だ!  そう思い、喉を押さえ目をぎゅっと瞑った時に、閃光が走った。 「あっ!」  ふっと躰が突然軽くなった。  何が起きた?  目を見開くと、ちょうど俺の真正面に俺がいた。着物を着ているが同じ顔の青年が、同じようにこちらを驚いた表情で見ていた。驚きで目を見開いて……喉元を苦し気に押さえ、口元からは小さな気泡がコポコポと漏れている。どうやら俺と同じ状態になっているようだ。 (君も白き花を?)  発せられない言葉を頭の中で思い浮かべると、彼にも通じたらしくコクンと頷いてくれた。 (そうか……あの岩場から落ちて溺れたんだね)  寂し気に青年は頷いた。 (そうか……心配しなくてもいいよ。助けは必ず来るから)  何故だかそう確信を持てた。その通り次の瞬間には、不思議なことに息が出来た。 (なぜ? ここは川底だ。こんな風に以前、俺は湖の底で、彼に会った。もしかして彼が近くにいるのか)  静寂の世界の浮かび上がる白く優しい光は、月明りのよう。  その光の中から直衣を纏った彼がすーっと姿を現した。  薄花色と薄浅葱色の重ねが涼し気な、平安装束を身にまとっていた。 (洋月!) (洋、また逢えたね。でも、こんなところにいては駄目だよ。さぁ戻ろう)  ほっそりとしたその姿。あの日確かに遠い国へと戻って行った洋月だった。 (信じられない、今日会えるなんて……とても会いたかったっ! ) (洋、俺も会いたかったよ) (君は幸せそうだ。良かった) (洋、俺はもう大丈夫。今は丈の中将と静かに暮らしているから安心して) (そうか……よかった。本当に)  洋月は俺の隣にいる夕凪のことを一瞬不思議そうに見たが、すぐに納得したようだった。 (そうか……君も……君も俺なんだね)  夕凪と俺の手を、洋月が取り持って繋いでくれた。 (さぁもう行こう。本当に溺れてしまうよ) (でも一体どうやって、上に?) (大丈夫、俺たちにはヨウがいてくれる。さぁ駆け上がろう。光と共に)  そう言い終わるとすぐに、ゴボゴボと地底から水が沸き起こるような爆音がした。  雷だ!  強烈な雷光が川底をえぐるように一気に届いた。その光はまるで地上への道のように、まっすぐだった。途端に光に誘われるかのように、俺の躰は上昇していく。手を繋いでいる夕凪の躰も一緒に。  あと少しで地上だ。  その時、力強い手に腕を突然掴まれ、ぐいっと引き上げられた。 「洋っ!おいっ大丈夫か。しっかりしろ!」 「夕凪っ!おいっ大丈夫か。しっかりしろ!」  二人の男性の声がぴたりと重なった。 「あっ……」  丈だ! 丈が来てくれた!   力強い手によって、躰が左側に大きく傾いて、夕凪と繋いでいた手が解けてしまった。  そうか……俺達はここで別れるのだ。この先は、それぞれの世界に。  別れ行く夕凪に問いかける。  夕凪、君は幸せなのか? 君の幸せは俺の幸せにつながっていく。どうか幸せになって欲しい。  だが夕凪からの返事は聞こえなかった。  ザバッっと大きな水音と共に、丈に抱きかかえられ、俺はこの世に戻って来た。躰中から水が滴り落ちる中、怒り、不安、恐怖に怯えた丈の顔が間近にあった。 「洋、無事か」  ずぶ濡れの俺は、丈に横抱きにされたまま川から上がり、岩場に横に寝かされた。 (大丈夫……ゴホッゴホッ)  そう答えようとすると、飲み込んだ水が口から溢れ出て、激しく咳き込んでしまった。 「洋しっかりしろ」  丈の濡れた頬や髪から、水滴がまるで涙のように降って来る。顎を上にあげられ、そのまま口づけをされた。  丈の呼吸と共に俺の体の奥底に吹き込まれたのは、生命の灯だった。

ともだちにシェアしよう!