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完結後の甘い物語 『蜜月旅行 31』
「洋くんどうした? 」
俺の不躾な視線を辿り、翠さんは自分の躰を見下ろした。だが俺にはそれが何かを聞く勇気はなかった。
「あ……いえ、何でもないです」
「そう言えば……僕はいつの間に上着を脱いだのだろう」
「さっさあ…」
チラッと横目でもう一度確認するが、見間違いではなかった。
さっきまで、あんな痕なかったよな。
一体誰が付けたのか……
頭の中でぐるぐると考えを巡らせていると、突然翠さんの指先が、俺の首筋に触れたので驚いた。
「なっ何ですか」
「ここに、ついているね。僕たちの間では構わないが、外へ行く時は、ボタンをもう一つ上まで留めた方がいいかも」
優しい口調だがはっきりと言われた事に、ピンときた。
慌てて部屋の鏡に映すと……首筋のシャツのボタンを一つ外した部分に、見事なまでのキスマークがあった。
翠さんのおぼろげな物とは比べものにならない程、はっきりとそれと分かるものだ!
「丈の奴……!」
そういえば、岩場で首筋をしつこいくらい吸われて、ピリッと痛みが走った。
丈は俺にキスマークをつけるのが、以前から好きだ。初めて旅行した温泉宿でも、躰中に散らされたことを思い出して赤面した。
そうだ、あの日も二人で海を歩いたよな。
まだ春先の冷たい海だった。
あの時……二人で見上げた虹を忘れない。
「洋くん大丈夫だよ。気にしないでいいから」
「は……はい」
それでもやっぱり恥ずかしくて、翠さんの優しい声に消え入るような声で答えるしかなかった。
「あぁごめん。そんなに怯えなくても大丈夫だよ。それより流と丈は買い物に行ったらしいね。僕たちも行かないか。っと、その前にまずはシャワーを浴びるんだったな。着替えは今度はこれか」
見ると、翠さんの手には何か紙が握られていて、それを嬉しそうに見つめていた。
あ……この表情。
寺にいる時の翠さんではなく、とても気を許した表情だ。
十歳近く年上の男性への表現としては間違っているのは分かるが、あどけなく可愛らしい人だと思った。
おそらくそのメモ書きは、流さんからだろう。
流さんは翠さんのことをお世話するのが生き甲斐のようだからな。でも、こんな可愛らしい面を持ったお兄さんがいたら、放って置けないのも分かる。
「あの、シャワーなら俺の部屋の隣です。どうぞ」
「んっ借りるよ」
翠さんは上半身裸のまま…バスローブを手にとってスタスタと歩き出した。
ほっそりとしているが、適度な筋肉も付いていて綺麗な躰だった。
男の俺から見ても、翠さんは美しい。
もしかしたら翠さんを愛している人が、近くにいるのかもしれない。
とても近くに……何故かそんな予感がした。
****
「お待たせ、洋くん」
手持無沙汰でリビングでテレビを観ていると、さっぱりした表情の翠さんが現れた。淡いグレーの浴衣は糊が効いていて、ピンと張りがあった。それを着こなしている翠さんの姿は風情があり、たおやかだった。
「さぁ僕たちもロビーに降りてみよう。まだホテルの内部をゆっくり見ていないしね」
さっきまでの、どこかあどけない表情は消えて、大人っぽく余裕のある表情を浮かべていた。
色んな顔をする人だ。
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