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完結後の甘い物語 『蜜月旅行 36』
翠兄さんが好みそうなワインを沢山買い込んで、上機嫌でホテルへ戻って来た。
結局銘柄に迷い全部買い込んでしまったが、まぁ飲めない分は俺と丈で飲み干せばいい。翠兄さんは酒はそんなに強くないが、ワインは好きだ。だからとびっきり上質なワインで、気持ち良く酔わせてやりたい。
洋くんもどうやらそんなに強くはないようだな。可愛い洋くんを酔わすのも、部屋飲みの醍醐味しな。おっと……こんな考えバレたら、丈に怒られるか。
「流兄さん……本気で重たいです。もう喉がカラカラですよ」
ふと見ると丈が玉のような汗を額に浮かべていた。重たいワインを担ぎ、汗だくになった荷物持ちの弟も可愛いもんだ。いつも澄ましていた弟との距離が、どんどん近付いているのを感じた。
「悪かったな。よしっお礼にラウンジでビールを奢るぜ」
ねぎらう軽い気持ちでラウンジに入った。ところが丈と向かい合わせに椅子に座った途端、とんでもない光景が目に入って来た。
「なっ!」
ラウンジの一番奥の三人掛けのソファ席に、男二人が並んで座っていた。
一人は薄暗い照明の下でも、すぐに分かった。
何故なら俺が用意した浴衣を着ていたから。
では、横にいる男は誰だ?
洋くんではないことも、すぐに分かった。
体格が良く太った男だ。どこかで見たような……
すぐに思い出せなくて思考を巡らせていると、突然その男が、翠兄さんの頬を撫でた。
その瞬間、頭を鈍器で殴られたようなショックが全身を貫いた。
いやらしい手つきだった。
翠兄さんは心底嫌そうな表情を浮かべ、その手を制した。
男が顔を上げた時、やっと思い出した。
あいつ!あの克哉か!
随分太ったせいで風貌が変わっていて、すぐに気が付かなかった。
なんで今更あいつがここにいるんだよっ!
カッとなって俺は立ち上がった。
そのままつかつかと彼等の席へと向かうと、俺が近づいてくるのを察したようで、克哉は慌てて立ち上がり、逆方向の出口から一目散に出て行ってしまった。
「くそっあいつ……」
追いかけて一発殴ってやりたいところだが、ぐっと堪えた。
「流……良かった……来てくれたのか」
「翠兄さんっ大丈夫でしたか。何もされなかったか。なんであんな奴とこんな所にいるんだよ」
「……それは」
動揺を隠せない翠兄さんの表情に不安が過る。
だが今ここで言及しても何もいいことはない。
忌々しい過去が掘り起こされるだけだから……
「いや……いいんだ。兄さんは何も言わないで。今は何も思い出さなくてもいい」
「……流、ごめんな。お前にまた心配かけたな」
「いや、せっかくの旅行中だ。もう忘れよう。さぁ兄さんの好きなワインを沢山買ってきたので、部屋に行きましょう」
「あぁそうだね。でも……ごめん。少し気を落ち着かせてからでもいいか。今すぐには戻れない」
気丈に振る舞ってはいるが、膝の上で握られた手がカタカタと震えているのを、俺は見逃さなかった。俺は呼吸を整え気を落ち着かせ、いつものように兄さんに接することにした。
「兄さん……温かい紅茶でもオーダーしましょうか」
「そうだね。そうしてくれ」
****
「チェッついてないな。流が近くにいるんなら長居できないじゃないか。でもこんなリゾート地で、憧れの翠さんと再会できるなんて運命かな」
「……君は何を言っている? 今日はたまたま君の子供が迷子になったのを助けただけで、僕にはそんなつもりはない。もともと……最初から何もなかったはずだ」
「ふっ……可愛いことを。覚えていますか、高校時代のあなた。本当に綺麗でしたね。大学の頃は色気も増して……最高だった。あれから二十年も経ったっていうのに何も変わってないな。その浴衣姿もそそられるな」
隣に座っている克哉くんの目の奥に、怪しい炎が灯ったような気がして、ゾクッとした。
思わず身を引くと、厚ぼったい手が伸びて来て乾燥した手の平で、ざらりと頬を撫でられ身が竦んだ。
「やめっ…」
思わずそう叫びたくなるほどの嫌悪感。
その時向こうから誰か長身の男性が近づいて来る気配を感じた。克哉くんも気が付いたようで、はっと目を見開いた。
「ふんっ! もうお出ましかよ。翠さんの騎士!」
「りゅっ……流!」
「翠さん、あいつが来たから行きますよ。また殴られるのはごめんだ! またの機会に」
克哉くんはまるで逃げるように慌てた様子で、去って行った。
僕の目は彼のことなんて目もくれず、流のことだけを見つめていた。
流が来てくれた。
やっぱり来てくれた。
僕の大事な、大好きな弟。
いつだって僕の傍にいてくれる弟。
一気に緊張がほぐれた。
流が近くにいるだけで、僕は何故こんなにもほっとできるのだろう。
「流……」
大切なその名を、僕は今日も呼ぶ。
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