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『蜜月旅行 68』もう一つの月
まだ明けきらぬ朝を迎えた。
躰には違和感が残り、かなり怠かったが、頭は冴え冴えとしていた。それはつまり、昨夜僕の身の上に起きたことを全て覚えているということだ。
忘れてしまえれば楽になれたのか。
夢で済ませてしまえれば良かったのか。
いやそうじゃない。
すべてを覚えていて良かった。
とうとう実の弟と躰を繋げるという禁忌を、僕は犯してしまったのだ。だが後悔はない。覚悟の上、弟に躰を明け渡した。
弟の想いを受け止めて初めて気が付いたことがある。
やっと分かりあえた僕たち二人が求めていた愛は、同じ重さだった。
月輪が運んで来た過去からの縁がきっかけだったが、そんなことに左右されなくても、僕は心の奥底でいつも流のことを求めていたと実感した。
気付くのが遅くなったせいで遠回りをしたが、今はこれでよかったと心の底から思っている。隣のベッドで安らかな寝息を立てている流の背中をみつめ、しみじみと思った。
「流、ありがとうな。一歩踏み出してくれて」
といっても、このまま同じ部屋で流と顔を合わせるのが妙に恥ずかしかった。こんな恥じらいを自分が抱く日が来るなんて思わなかったよ。しかも弟相手に、あぁ……この先どうするか、どうやって流と過ごしていけばいいのだろう。
「どうしたらいいのか」
窓の向こうに徐々に姿を現し始めた朝日に、無性に問いたくなった。布団の中の躰を確かめると、ベタつくことなくさっぱりとし、浴衣もきちんと着せられていた。
「まったく流らしいな。僕は記憶を失うように眠ってしまったのに」
綺麗に後処理をしてくれた後、同じベッドではなく、自分のベッドで寝ることを選んだ流の気持ちが居たたまれなくて、僕はそっとベッドから降りた。
足を着く衝撃に呼応するように腰にズキッと鈍い痛みを感じ、歩く度に、あり得ない場所がズキズキと熱を持って疼いているのが分かった。
受け入れる行為は初めてだったのだから仕方がない。だが、この位耐えてみせよう。
「流……少し時間をくれ。大風呂に行ってくるからな」
朝日を浴びながら、少し考えをまとめたい。そう思って置手紙一つで部屋を出た。
この先……流にどういう態度で接したらいいのか。どうやってこの深まった関係を維持していけばいいのか。
丈と洋くんと同じようにはいかない関係なのは、理解している。何故なら流は血を分けた僕の大事な弟なのだから……
流のことは僕が守り抜きたい、二度と失敗することのないように。
ところが部屋を出ようとする寸での所で、背後から洋くんに呼び止められた。
「翠さん、おはようございます。随分と早いですね」
「あっ、うん」
どこか僕は昨夜とは違う人間になってしまった気がして、一瞬たじろいでしまった。だが洋くんは何も気が付かないようで、無邪気に僕がタオルを握りしめているから風呂に行くと思ったらしく……
「翠さん、今からもしかして大風呂に?」
「……うん、朝日が綺麗だと思ってね」
「あの……俺も一緒に行っていいですか」
どう返答しようか迷ったが、洋くんの明るい笑顔に緊張の糸がほぐれた。
洋くんの笑顔は朝日のように澄んでいた。
彼はこんなにも明るい笑顔を浮かべる人だったろうか。遠い昔、やはり僕はこんな晴れやかな笑顔を眩しく見送ったような気がする。
「うん、いいよ。洋くんさえよければ一緒に行こう」
「嬉しいです。ありがとうございます!」
****
大風呂はさぞかし混んでいると思ったが、脱衣場には人がまだ誰もいなかった。
「一番かな。空いていますね」
「きっとこれから人が押し寄せるのだろうね」
そんな会話をしながら、僕は鏡の前ではらりと浴衣を脱いだ。そして鏡に映り込む自分の躰を凝視した。見慣れたはずの自分の躰なのに、自分だけのものではなく、人のものともなった躰に見えた。
「翠さん。どうかしたんですか」
「あ……いや。先に入っていてくれないか」
「分かりました! じゃあ中で待っていますね」
もう一度、鏡で躰を隈なく確認した。
どこかおかしなところはないか。だが流はあんな状態でも理性を保ったらしく、最初に寝ている間につけられた胸の下の一か所の赤み以外には、何も残されていなかった。
そのことに、何故かがっかりしている自分に驚いた。
僕は一体何を期待しているのだ。
流に愛された証が欲しいわけじゃないのに。
脱衣場と大風呂を繋ぐガラスの引き戸越しに、朝日が眩しく射し込んで来た。自分が立っている足元も壁も天井もすべて橙色に優しく包まれ染まっていく。
とても綺麗だ。
そうだ……この世は美しい。
僕は大丈夫だ。
この先もきっとこの世の中で、うまくやっていく。
希望に溢れる色に包まれると、そんな願いにも似た力が込み上げてくるようだった。
洋くんが待っているから早くしないと、朝日が昇りきってしまうな。急いで腰にタオルをしっかり巻いて大風呂へ行こうとした時、誰かが脱衣場に入って来た。
朝風呂の時間なので他の客だろうと気にも留めず、風呂場へ続く引き戸に手を掛けた時だった。
僕の腕は誰かにグイっと握られ、後ろへと強引に引っ張られた。
「だっ誰だっ」
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