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『蜜月旅行 70』もう一つの月
遅い……遅すぎないか。
翠さんに促されて先に湯に浸かってから、時間が立ち過ぎていた。
一体どうしたんだろう?
何故だか心がざわついて、俺は脱衣場への扉に手を掛けた。
「えっ」
そこで見た光景に絶句した。
脱衣場のちょうど入り口と真逆の位置、一見して死角になる場所に翠さんは押し込められていた。その前に立ちはだかる大柄な男性には見覚えがあった。
あれは昨日、ロビーで会った人だ。
翠さんはあの時僕を庇うように接触を避けさせたが、一体誰だ?
二人は顔見知りで、翠さんは彼のことを「かつやくん」と呼んでいた。やはり二人の間には何かあったのだ。何か良くないことが……
「綺麗だ。あの時のまんまだな、翠さんの躰」
「そんなこと言うな! 離せっ!」
切羽詰まった翠さんの声が切なげに脱衣場に響いた。
これは駄目だ! まずい、早く……とにかく助けなくては!
だがよく考えろ。俺が出来ることはなんだ? 翠さんの足手纏いにならないように、対処するにはどうしたらいいのか。見るからに体格差があり、力では敵わない。
そうだ……何か証拠と彼の弱みを握ってからの方がいい。
かつて俺がそうされて困ったように。
気が付かれないように、脱衣場の扉を開けて浴衣を着て、ロッカーからスマホを取り出した。
****
はたして俺は……翠さんのことを本当に助けることが出来たのだろうか。
やがて脱衣場には家族連れがやって来て、途端に賑やか平穏な空気を取り戻した。そんな中、俺は翠さんを海を見渡せる露天風呂へと誘った。
「洋くん……さっき、ホテルの人に電話をかけたんじゃ」
「あぁ、あれは嘘ですよ。あまり大事にすると翠さんが困ると思ったので。あとで動画も消します」
「そうか……いろいろと君に気を遣わせてしまったな」
「いや俺には翠さんの気持ちが少しは分かるかもしれないので……もし話すことで楽になれるのなら、俺でよかったら聞きます」
そう告げると、翠さんは唇を噛みしめ覚悟を決めたような表情を浮かべた。
「洋くん……実は……僕も昔……洋くんが受けたような理不尽な体験をしたんだ。あれは最終的には22歳の時だった。さっきの男に無理矢理襲われた……」
やはり……と思った。
ただならぬ雰囲気なのは、二人の話の過程から察することが出来ていた。それにしても気になるのは、あの男の素性だ。何故翠さんは言いなりになる?
「……彼は誰です?」
「ん、彼は……僕の親友の弟なんだよ」
「親友の?」
そうか……やはり身近な人だったのか。
親友の弟。その微妙な位置づけの相手に翠さんは苦しんでいるのか。
「結局寸でのところで助けられたが……本当に怖かった。自分の意志ではどうにもならないことが、世の中には存在することを知った日でもあった」
あぁ……その悲しみの深さなら、俺も知っている。
男としてのプライドを傷つけられた衝撃、無理やり躰を他人に弄られるその痛み。当時の翠さんの気持ちを想像すると胸がキリキリと痛んだ。
この旅行に来るまで……俺は翠さんという人について、まだ深く理解できていなかった。
丈の一番上の兄で、寺の跡取り。ずっと住職となるために修行を欠かさない強い人。しなやかだけど凛として本当に長男らしく……しっかりとした人だと思っていたのだ。
そんな翠さんが、まさかこんなにも深い悲しみを、心の奥底に抱えていたなんて。
「洋くんと僕はどこか似ていると思うのは、勝手ながらそんな体験をした者同士というのもあるかもしれないな。洋くんに聞いてもらえて……どこかほっとしている自分がいるよ」
そう告げた翠さんの横顔は、確かに何かを吹っ切れたようだった。
「翠さん……?」
「僕はね……実は今すごく大切なものを手に入れたばかりなんだ。そんなタイミングで、かつて僕を襲った人間と再会してしまうなんて、これも一つの試練だと思う」
「そんな……翠さんは何も悪くないのに、それを試練だなんて」
「でもその試練があってこそ、余計に、今大事なものが愛おしく感じるものだな」
何と答えて良いのか分からなかった。
俺の推測が間違っていなければ……翠さんの大事なもの、手に入れたばかりのものとは、もしかして……だがその先の言葉は決して口に出してはいけないと思ったので、代わりに違う言葉を贈った。
「俺は……悲しみに暮れた日々も、今となっては無駄ではなかったと思っています」
「そうなのか。洋くんがそう言ってくれると心強いな。本当に今まで誰にも話せていなかったことなんだ。このことは……でも洋くんには何故だか話したくなってしまって……」
「いえ、悲しみも分け合うことが出来たら、少しは気持ちが晴れます。俺でよかったら、いつでも話して下さい。でも……」
「でも?」
無理なのかもしれないが、伝えたい言葉があった。
「もしも凄く大切な人がいるなら、その人とも分け合って欲しいです。俺が丈とそうしたように……」
「……そうか……そういうものなのか」
ふっと微笑む翠さん。その相手のことを、頭に思い浮かべたのだろうか。
「だが……それは難しいな」
翠さんは困ったように眉根を寄せて遠くを見つめていた。
それでいいのかもしれない。
いろんな恋がある。
その人にあった生き方がある。
俺には何も出来ないが、翠さんに芽生えたばかりの恋がいつまでも続けばいい。
そう……俺達を希望の色へと染め上げていく朝日に誓った。
どうやらこの蜜月旅行は、俺達だけでなく翠さんの人生に於いても、大きなターニングポイントともいえる大事な旅行となったようだ。
「もう一つの月」 了
あとがき (不要な方はスルー)
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こんにちは。志生帆 海です。
蜜月旅行も70話となりました。
いつの間に、こんなに長く書いたのかと自分でも驚きです。
新婚旅行の1日に70話って一体……しかも完結後の甘い話を書くつもりが、最近は流×翠CPがメインになっています。
毎回しつこく書いてしまうのですが、本当に一緒に楽しんで下さる方がいなかったら、無理だった数字だと思います。重ね重ねありがとうございます!
翠さんの過去の出来事は今後「忍ぶれど…」の方でじっくり書いているので、かなり端折っています。気になる方はよかったら読んでみてください♡
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