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いにしえの声 2
「少し待って下さいね。今、母を呼んできます」
京都御所と二条城との中間にある一宮屋は、道昭さんの作ってくれたリストの中でも、特に老舗の呉服屋だった。
もう外は暗い。恐らく今日調べられる最後の店になるだろう。
どうか縁がありますように。
祈らずにはいられない。
大正時代の話を知りたいと申し出ると、彼女の母親(女将)の母親が健在だというので詳しい話を聞くことができそうだ。
それにしても通された呉服屋の店の中は、何故だか懐かしく感じる。綺麗な反物が色とりどりに並んでいて、華やかな世界だった。
ここは……もしかしたら俺と何かしらの縁があるのかもしれない。第六感が働くというのか、五感を超えるものを確かに感じていた。理屈では説明がつかない、鋭く本質を掴めそうな何かが、心を満たすように働きかけて来て、苦しい程だ。
「それにしても洋くんは博識だね。あんな風に急に歌を返せるなんて」
「あ……さっきのですか。あれは源氏物語の有名な一説だったのでつい」
「ふぅん、古典に詳しいんだね」
「翻訳の仕事でもありましたし、それに興味があって、最近じっくり読んだばかりだったので」
洋月とのことがあって平安文化に興味が出て、源氏物語を読んだので返歌を覚えていた。ただ……今、翠さんに洋月やヨウのことまで話したら、ややっこしくなるので、黙っておくことにした。
「そう、君は本当にすごいよ、なんだか僕は心強くもあるよ。洋くんと京都に来ることが出来て良かった」
「翠さんにそんな風にいってもらえるなんて……嬉しいです」
憧れの翠さんに少しは認められ、翠さんの役に立っていると思うと心が熱くなる。
「さぁお待たせしました。母なら何かを知っているかと思って」
先ほどの女性と一緒に奥から現れたのは、白髪の上品な女性だった。
「私でよければ、その写真を見せてくださる?」
「これです。僕たちはこの中央に写っている男性を探しています。時代は大正時代で、この写真は北鎌倉で撮影したものですが、彼は京友禅に縁がある人物だったようなのですが……彼の消息をどうしても掴みたくて探しています」
翠さんが真剣に話すと、それを察したようで相手もじっと写真を見つめた。
それからふと俺の顔と写真を見比べて、はっとした顔を浮かべた。
「この男性……もしかして……あぁ、そうなのね、少し待って」
慌てた様子で、もう一度奥へ引っ込んでしまった。
どうやら何かを取りに行ったようだ。
確かな手ごたえがありそうで、俺と翠さんの間にも緊張が走った。
「洋くん、どうやら何か掴めそうだ」
「ええ、きっと」
奥からその女性が持って来たのはセピア色の写真。
俺達が持ってきたような一枚のぺらっとしたものではなかった。
厚紙に埋め込まれた古い写真で、まるでお見合い写真のようなものだった。
「この男性ではないかしら? そっくりよ」
目の前に置かれた写真を見て、驚愕した。
「夕凪だ。この人は……」
写真の中の彼は仕立てのよいスーツを着て微笑んでいた。北鎌倉で撮った写真は人物が小さかったが、この写真は違う。顔の表情が細部にまでよく見える。
写真の彼は柔和な笑みを浮かべ、良家の子息らしく幸福そうだった。
そして改めて俺に似ていると思った。
眉の形も目も鼻筋も口元も……なんだ……これは一体。
とても不思議な感覚だ。こうやってスーツを着て現代風の装いをしていると、持って来た写真よりも更に似ていると思った。
「……やっぱり、かなり似ているね」
翠さんも感嘆の溜息を漏らした。
「彼は誰です? 教えてください」
「分からないわ。私の母がこの写真を後生大事に持っていたのよ。亡くなる前に私に託したのよ。ずっ持っていてと、いつか必要になるかもしれないとも。あっこれは父とは違う人よ。母はいつの日だったか……私に初恋の昔話をしてくれたことがあったわ」
……
「桃香ちゃんの初恋はいつかしらね」
「まだよ!お母さまの初恋はいつ?」
「ふふっ」
母は少女のように微笑んだ。
「お父様なの? それとも別の方? 詳しく教えて欲しいわ」
「そうねぇ……お父様と別の方よ。これは桃香ちゃんと私だけの秘密にできるかしら」
「出来るわ!」
「では見せてあげましょう」
母は大事そうに机の引き出しの奥から何かを取り出した。どうやらお見合い写真のようだった。何度も見開きしたのか、折り目が今にも破れそうになっていた。
「この方よ」
「うわぁーお綺麗な方、男の方でこんなに美しい方を見たことないわ。この方一体どなたなの?」
「この方は宇治の君よ。私の初恋で許嫁の方で……もう少しの所で上手く行かなかったの」
母の目は遠くを見つめていた。
名残惜しそうに、少し悔しそうに……
「でも、宇治の君ってどういうこと?」
「えっとね……彼は宇治で幸せに暮らしたことでしょう。私とは一緒になれなかったけれども……だから私の心の中でずっとそう呼んでいたの」
「ふぅん……」
……
「当時の私には、その意味が掴めなかったし、誰にも言うなと言われたので、それ以上聞く事は出来なかったの」
高齢の女性は懐かしそうに昔を振り返ってくれた。
「宇治の君ですか」
「ええ、確かにそう言っていたわ」
「翠さん、宇治に行ってみてはどうでしょうか」
「そうだね。夕凪は宇治にいたような気がする」
「あの……この風呂敷は?」
翠さんが写真の下に敷いていた風呂敷に、女性の目が留まったようだ。
「これは、その宇治の君と呼ばれた人物、夕凪が染めたものらしいのです」
「まぁそうなのね。それにしてもこの色合い……どこかで見たような」
「見たことがあるんですか」
「ええっと……どこだったかしら」
俺はごくりと唾を呑み込んだ。
一気に開けていく、繋がっていく。
そんな瞬間を過去に何度も味わって来たが、まさにその時がまたやって来たようだ。
絶対に見つける。
夕凪の行方。
そして翠さんにとって本当に必要な情報を、手に入れる。
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