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いにしえの声 4

「翠さん、さっきは、その……すいませんでした」  一宮屋からの道すがら、翠さんの胸で泣いてしまったことが恥ずかしくなって、宿坊に戻って布団を敷きながら謝った。 「何を謝る? 涙が出て良かったと思うよ。洋くんが泣きたい時に泣けるようになって、良かったと」 「……翠さんは優しすぎます」 「そんなことない。僕は酷い奴だよ。いろいろと……変に意固地で随分遠回りさせた」  誰とのことを言っているのか、それは言わなくても分かる。  でも遠回りには、きっと意味があったはずだ。  急いだら……手に入らなかったものかもしれないから。 「それより明日は朝から仕事なので、宇治方面や大鷹屋の資料館に同行できないんです。どうしますか。また出直しますか」 「いや大丈夫だよ。ひとりでいろいろ探してみるよ」 「でも……大丈夫かな。なんだか心配です」 「ははっ、洋くん、僕は傍から見ればもう38歳のおじさんだよ。何も心配はいらない」  いやいや全然そんな歳に見えないし、むしろ前より色気が出て来て危ない。俺が言うのもなんだけど、本当にそう思う。 「……何でも流さんに相談した方がいいと思います。ひとりで決めないで。あっすいません。俺、また余計なことを」  しまった! 目上の人に向かって偉そうに……と後悔したが、翠さんは嬉しそうに微笑んでくれた。 「洋くん、そんな風に心配してくれて嬉しいよ。僕たちはどんどん本物の兄弟のようになってきているね」 「そんなっ、偉そうなことを言ってしまったのに」 「いや、君はもう僕の弟だなってしみじみと思ったよ。分かった。助言通りに流には相談するよ」 「良かった。ほっとします」 「それより明日の準備はいいの? 持ち物とかスケジュールの確認をもう一度した方がいいね」 「はい。翠さんは先に休んでいてください」 「ゆっくり準備して。僕は流に電話しているよ」  今度は俺が素直にその意見に従った。  窓辺に座って電話をする翠さんの横で、明日の仕事に向けて準備を始めた。  初めての仕事だ。失敗するわけにはいかない。この仕事がうまくいけば、医療系の仕事に就きやすくなる。それは丈との距離が近づくことを意味しているから。  もう少し医学用語を確認しておこうと思い、丈が用意してくれた資料を取り出して、読み込んでいく。後はノートパソコンの充電も忘れずに。  一気に自分の世界へと集中していった。 ****  北鎌倉、月影寺。 「よーっし、薙はそろそろ寝る時間だ」 「えーもう?」  時刻は22時……  そろそろ翠も部屋に戻っているだろう。  あれから薙の様子は落ち着いていた。  朝あんな風に泣くなんて驚いたが、心に溜まっていたものを吐き出せたようで、すっきりした様子で登校したので、ほっとした。  下校した薙と二人で飯を食ってから、居間でテレビを観たりして寛いだ。  翠の息子はツンツンしているが一度懐に入れてしまえば、翠に似て優しい心根を持っている。それを知っているから、俺も実の息子のように可愛がっている。父親に素直になれないのがもどかしいのだろう。母親も遠くにいるし……甘えたかった気持ちが押し寄せたのだろう。  激しいが綺麗な心を持っている。  この先……曲がらないように育ててやりたい。 「さぁ部屋に戻れ」 「えーまだいいじゃん」 「おいおい…そうだ! 明日の午後は一緒に工房で陶芸でもやってみるか」 「えっいいの?」 「あぁ」 「やった!オレ習ってみたかった」 「じゃあもう早く寝ろ」 「うん、分かった!おやすみなさい」  モノで釣るようで申し訳ないが、手っ取り早いと思った。薙が部屋に戻ったのを確認して、俺は洗い物や明日の朝食の下準備をササッと済ませた。  ようやく翠と話せる。  俺の翠と。  まだ離れて過ごすのに耐えられない。  それを今回の旅で実感した。  翠を俺の腕の中にずっと閉じ込めておきたくなる。  手離せないんだ、少しの間も。  今度京都へ行く時は一緒に連れて行ってくれよ。  頼むから俺の傍にいてくれ。    不安なんだ。翠の姿が見えないと──

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