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いにしえの声 9

 丈はまっすぐ俺の前で立ち止まった。  その瞬間、俺の隣に立っていた高瀬という男が驚いた声を発した。 「えぇ! 張矢先生じゃないですか! 先生もこの学会に?」 「あっ君は確か……」 「前に先生の取材をさせていただいた高瀬です。覚えていますか」 「あぁ週刊誌の特集だったかな」 「嬉しいです。まさか京都で会えるなんて思わなかったです。よかったら一緒に行きませんか」 「え? あぁでも私は先約があって」  呆気に取られて二人やり取りを見つめていた俺と、バッチリ目が合った。 「こちらの浅岡くんと行くことになっていてね」  驚いたな……丈、そんな堂々といいのか。  この場は知らないふりをした方が無難だと思ったのに、丈の方にはそんな気は更々ないようだった。 「えー二人は知り合い? 浅岡さんが待ち合わせしていたのって張矢先生だったのか」 「あ……まぁ、そういうことです」  しどろもどろに答えるが、なんだか気恥ずかしくて、語尾が小さくなってしまう。 「じゃあちょうどいいですね! 僕も一緒していいですか、張矢先生とせっかく会えたんだし」 「……勝手にしろ」 「またそんな寂しいことを。密着取材で、朝まで過ごした仲なのに」 「おいっ、あれは仕事の一環だ」  何だか俺の知らないところで、いろいろ繰り広げられていたようで……丈の仕事に無関心だったことを、今更ながら悔やむ羽目になった。  丈の顔も、ひきつっていた。 「さぁ先生、行きましょう。先生は毎年京都の学会にいらしているんですか。今日はどの発表を?」  何故かこの高瀬という男が丈の隣を歩き、俺は後ろからついて行くことになってしまった。彼は学会の取材に慣れているようで、次から次へと話が沸いて来るようだ。それに比べて俺は……医療系のライターはまだ数回しか経験がないし、まして学会なんて初めてで、勝手も分からない。  さっきまでの膨らんだ淡い甘い気持ちが、急激に萎んでいくのを感じた。  着慣れないスーツも首元のネクタイも……全部、窮屈だ。  丈の横顔もやれやれ、参ったなといった表情を浮かべていた。  でも、信号で止まった時、さりげなく俺の方を振り向き、大丈夫かと心配そうな表情でアイコンタクトを取ってくれた。  はっとした。  そうだ、これは仕事だ。  こんな事は、この先いくらでもあるだろう。  まずは自分の仕事をこなそう。  そのアイコンタクトで、ぐっと心が落ち着いた。  俺は静かにしっかりと頷き返した。  丈、心配するな。  この位、大丈夫だ。  俺は大丈夫だ。 ****  京都 右京区 風空寺にて 「翠、ひとりで大丈夫か。宇治まで同行しようか」 「ははっ道昭までどうした? 随分と心配症だね」  そう言って微笑む翠にドキッとした。  大学時代から美人な男だとは思っていたが、久しぶりに会った翠は、時の経過なんて感じさせない程、艶やかになっていたから驚いたもんだ。  歳を取ったのは俺だけなのか。俺はもういいおっさんなのに、なんだか狡いぞ。  大学を卒業して一年もしないうちに結婚し、あっという間に父親になり、だが僅か五年で離婚したと、風の便りに聞くことは驚きの連続だった。  翠の事は入学した当初から知っているが、そんな大胆なこと仕出かすようには見えなかった。  長男だと聞いて納得したもんだ。  どこか自分を抑えた、思慮深い優しい男だった。  そして男にしては綺麗すぎる顔立ちで、大学の女どもにはよくモテていた。  あぁそうだ。あれは同じ仏教科の女学生だったな。たしか渋谷の寺の娘で燈子さんだ。彼女の従姉妹と結婚したんだったよな。  あの頃も今も……多くは語らない翠。  何故、そんな昔の……大正時代の男を追っているのか。  それを見つけた先に何があるのか。  教えて欲しいと思った。  もっと頼りにして欲しいとも。

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