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いにしえの声 10
学会が開催されるホテルの会場には、全国の医者が既に大勢集まっていた。マスコミ取材関係と医者の受付は違うので、そこで一旦、丈とは別れることになった。
「張矢先生の受付はあちらですね。あっランチはまたご一緒できますか。よかったら君……えっと浅岡さんもどうですか」
「悪いが、私は先約があるから駄目だ」
「えーそうなんですか。僕、一人で見知らぬ場所で食べるの苦手なのに」
「とにかく受付をしてくるよ」
丈は苦い顔で笑った後、すっと真顔で誘いを断ってから受付に向かった。
俺は二人の様子に口は出さず、始終無言で見守った。
それにしても高瀬さんって、随分と丈と親密なんだな。
駄目だ。さっき打ち消した嫌な気持ちがまた戻ってきてしまう。これは嫉妬心というのか。どうやら俺は、丈と彼の親密な様子に妬いてるようだ。
丈はいつだって俺だけを執拗な程に求め、一途な想いをぶつけて来たので、この展開は想定外だった。
俺だけが知らなかったのか。
そう思うと少し寂しい気持ちになった。
俺は二人が話している横をすり抜けて、受付の列へと進んだ。
「ちょっと待って! 浅岡さん。じゃあ僕たちで一緒にランチ食べましょうよ~僕の経費で落とせますし」
「いや。いいよ」
「そんなこと言わずに。ホームで助けてあげたのも何かの縁でしょう」
まじまじと高瀬さんのことを見ると、俺より5cmほど背が高いが、ほっそりと綺麗な顔だちをしている。丈もこういうタイプが好きなのか……などと、ぼんやりと思ってしまった。
なんだか仕事に来ているのに俺は馬鹿だ。
気持ちを早く切り替えないと学会が始まってしまうのに。
だから……話を切り替えることを試みた。
「あの、そろそろ会場の場所を確認しておかないと」
受付で渡されたパンフレットを見ながら、お互い行くべき場所を確認しあった。
「俺はホールAの取材だが……君は?」
「えっと僕はCだな」
「じゃあここで」
「うん、あとでそっちに行くよ!迎えにね!」
「えっ」
なんだか初対面なのに慣れ慣れしすぎないか。と思ったが口には出さずに別れた。とにかく、やっと一人になれてほっとした。
時計を見ると始まる迄、まだ三十分ほど時間があった。
ホテルの中庭がガラス越しに見えたので、そこで心を落ち着かせようと思った。
新鮮な空気が無性に吸いたくなった。
心を入れ替えよう。
気持ちを引き締めよう。
それにしてもこのホテルは雰囲気がいいな。
遠くに見える比叡山を借景に、 いにしえより保養地としても知られている景勝地・洛北の宝ヶ池という土地は、まるで別天地のようだと思った。
中庭から続く日本庭園へと誘われるがままに歩いた。角を曲がると数奇屋造りの茶寮が飛び込んで来た。
「あっこの感じ」
まるで北鎌倉の俺達の家のような風景に、一気に心が和んだ。
その時だ。
風に乗って、丈の香りが届いた。
俺を追いかけてきたのか、丈が微笑んでいた。
辺りには人気はない。
「丈……何で?」
「洋、悪かったな」
「……ずいぶん彼とは親密なんだな」
「彼は以前24時間密着レポの担当だったんだ」
「そんなの……」
知らなかった。
いや知ろうとしなかったのが俺だ。
だから俺がとやかくいえることじゃない。
「洋? 機嫌直してくれないか。洋の取材もホールAだろう? 私と一緒だな」
「そうなのか」
「それより」
丈がさっきから何か言いたげにしている。
「何?」
「いや……洋のスーツ姿久しぶりに見たがいいな。よく似合っている」
真剣に熱のこもった口調でそう囁かれ、気恥ずかしく俯いてしまう。
こんな場所でこんな時に、甘く低い声で囁くのは反則だ。
荒れていた気持ちが、静まっていくのを感じた。
それを言うなら丈のスーツ姿の方が、ずっと格好いいのに。
「丈も……凄く似合っている」
丈の手から俺の手に、カードを渡された。
丈の温もりを感じる。
「これは?」
「ホテルの場所だ。今夜はここに泊まるぞ」
それはホテルの地図が記載された名刺サイズのカードだった。
「ありがとう」
「洋、さっきホームで転んだのか」
「え?」
「さっき高瀬が言ってたからな」
くそっ言うなよ。っと心の中で悪態をついた。
「怪我しなかったか」
「大丈夫だ」
「荷物は?」
「落としたけど、大丈夫そうだ」
「落とした? ノートパソコンは無事か」
丈の顔色が、さっと変わる。
全く……いい歳して心配されるとか、気恥ずかしい。
今日は仕事モードだからか、とにかく気になった。
「さっき確かめたよ。もう俺は子供じゃないんだから、そんなにいちいち聞くなよ。恥ずかしい。もう行くよ。仕事中だし、もう話しかけるなよ」
せっかく心配してもらっているのに、どこか素直になれないのは高瀬さんのせいなのか。でも流石にもう仕事に集中しないといけない時間だ。
「もう行くよ」
「洋……待てよ」
「続きは、夜に……」
今からは仕事だ、丈。
だから夜に……また夜にだ。
今すぐにでも丈に抱きしめられたい気持ちは押し殺し、俺は彼の横をすり抜けて会場へと戻った。
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