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いにしえの声 12

「さてと、お腹空きましたね。何、食べます?」  高瀬くんが俺にメニューを渡してくれた。  学会中なので、ランチメニューは、サラダとパスタとドリンクのセットだけだそうだ。  俺が好きなのはミートソース。  もともとハンバーグとかオムライス、パスタならナポリタンかミートソースが好きなんだ。お子様みたいだと流さんにはいつも笑われるが、丈と二人で外食するときは、言い出さなくてもそれを頼んでくれる。  まぁ今日はそういうわけにはいかないが。 「あっじゃあ、ミートソースにしようかな」  ところが俺の発言に、丈がさり気なく首を横に振った。  なんでだよ?と俺も目で訴える。 「私はアスパラとベーコンのホワイトクリームソースのパスタにしよう。浅岡さんもこれにしましょう」  何故か丈が勝手に俺のメニューを決めて来る。もしかして俺がソースを飛ばすと思って、白いソースを指定してきているんじゃないかと思うと、無性に腹が立った。  子供じゃあるまいし。そりゃ……たまにソースを飛ばして、丈に溜息をつかれるが、気を付けて食べれば大丈夫だろう。  子供扱いすんなよ。と反目した。 「へぇホワイトソースいいですよね。僕もそれ美味しそうだと思っていました。張矢先生と気が合うな」  高瀬さんはそんなことを言って、いそいそと丈と同じものを注文したので、俺は意志を曲げずミートソースを注文してやった。  しかし……やっぱり食べにくい。  よりによってソースがゆるく、油断したら白いワイシャツに点々と飛び散って汚しそうだ。 「へぇ浅岡さんって少食なんですね。早く食べないと午後の部が始まってしまいますよ」  見れば二人の皿は空っぽで、俺だけまだ半分残っている。ちらっと丈のことを見ると、ほら見ろという表情で見られたので、ムッとした。  おかしいな。  こんなはずじゃなかったのに。  せっかく仕事で丈と肩を並べられると喜んでいたのに、こんなつまらないことでムッとするなんて勿体ない。  それは分かっているのに。  俺がパスタと格闘している間、向かい側の二人は楽しそうに会話している。  高瀬さんはこの業界に長いらしく、丈との専門的な会話内容に驚いた。  すごいな。俺の知らない用語を沢山知っている。しかも話す内容もウィットに富んでいて飽きさせない。  普段は寡黙な丈も、釣られて雄弁になっている。  俺だけがぽつんと取り残されてしまったような、寂しい気持ちを抱くしかなかった。  自信というものは、案外脆く、他人によって崩されてしまうものだな。 「じゃあ、そろそろ行きましょう。張矢先生は次はどの講演を?」 「あぁ次はCホールのシンポジウムに出てみるつもりだ。浅岡さんは」  丈がせっかく俺に気をつかってくれたが、残念ながら次は全く違う会場での取材だった。 「……俺は宿題報告の取材です。ホールではなく小さな会議室みたいで」 「そうか」  丈は幾らか落胆した様子だったが、高瀬さんは喜んだ。 「張矢先生。僕も同じ場所ですよ。やった!一緒に行きましょう」  俺のワイシャツは真っ白なままで汚れていなかった。  でも俺の心には点々と染みがついたような、落ち込んだ気分だった。  俺はあんなに医学用語を知らない。あんなに流暢に喋ることも出来ない。  自分がいかに不器用な人間なのか見せつけられたようで、胸が苦しい。 ****  午後の取材は散々だった。  個人的な事情を持ち込むなんて最低だ。  注意力散漫で頭に司会の声が頭に入ってこない。  それでもとにかく聴いたことを、どんどんキーボードを叩いて打ち込んでいかないと。  ところが、悪いことは重なるものだ。  さっきまで稼働していたノートPCがうんともすんとも動かない。 「え……まさか」  電源が何度押してもつかない。  まさか朝……転んでホームの硬い床に落としたのが今頃になって影響が。  真っ青になった。  ノートPCがないと仕事にならないのに。  それに、さっき打ち込んだデータはどうなった?  次から次に心配ごとが過っていく。  もう辺りは静まって、みな耳を澄まして聴講しているというのに、俺だけが一人焦っていた。  と、とにかく音声の録音だけはしっかりと……あとは手書きでメモしていこう。  頭を切り替えて必死に対応した。  でもこの後のことを考えると不安が尽きない。  何よりまたこんな馬鹿なことを仕出かして、恥ずかしいと思った。  二時間半にも及ぶ講演が終わる頃には手も疲れ、がっくりと肩を落としていた。  恥ずかしいよ、こんな失敗……社会人としてあるまじきことだ。  高瀬さんの仕事っぷりとますます溝が深まったようで、悔しかった。    俺は丈や高瀬さんに顔を合わせたくなくて、一人外に出た。  時刻は16時半過ぎ。  今日の学会の仕事はこれで終わりだ。  気が付くと……ひとり晩秋の京都の街を歩いていた。 「寒いな……」  仰ぎ見ると街路樹は色付いていた美しい葉をほとんど落とし、随分と間抜けな姿だ。  靴に絡まって来る落ち葉を蹴りながら、深いため息をついた。  人に踏まれて粉々になっていく落ち葉は、まるで俺のよう。  なんでも出来るような気になって、全然駄目だ。  いつになったら丈に追いつける。  こんなんじゃ……丈に会わす顔がない。

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