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いにしえの声 13

 全く、とんだ邪魔が入ったな。  学会のプレゼンテーションを聴きながら、頭の中は油断すると洋のことだけを想っていた。  高瀬くんは週刊誌の若手心臓外科医を密着取材で、私の担当をした人だったが、私は誰が担当でも、どうでもよかった。  仕事を早く終えて、ただ洋の元へまっすぐに帰りたい。  それ以上に何を望む?  それ以外に欲しいものなんて、何もないのに。  しかしさっきは大人げなかったか。  先ほどのランチ時に自分が取った態度を、反省していた。  最初はちょっとした悪戯心だった。洋が高瀬くんの存在に妬いていると分かったから……  滅多にない洋の嫉妬は、私にとって甘い蜜だった。  だが一度知ってしまうと、もっともっと欲しくなってしまい、洋を虐めてしまったのかもしれない。  まったく午後の会場が別だなんて、ついてないな。  このパターンだと洋は相当に凹んで、私を置いて帰ってしまいそうだ。  洋のことなら分かる。  手に取るように分かるから。  何年一緒にいたと?  一番近い所で洋のすべてを見て来たのは、この私だ。  その自負はある。 「これにて本日は終了となります。ご清聴を感謝したします」  終わりの挨拶と共に、私は会場を飛び出した。 「高瀬くん、今日は急ぐから失礼するよ」 「えっ張矢先生~待ってくださいよぉ。飲みに行きましょうよ」 「いや遠慮しておくよ。じゃあな」 「あっじゃあ明日の予定は?」  高瀬くんの声に振り返ることなく進んだ。急いで階段を駆け上り、洋のいる会議室へと向かった。  ところが一足早く終わってしまったようで、姿が見えなかった。 「やはりな」  放っておけない。  こういう行動をする時の洋の気持ちが痛いほど分かる。  始まる前にホテルの庭でつんけんした態度を取られて、私も意地になってしまったのが悪い。  せっかく私を追いかけて医療系ライターを目指してくれたのに、酷いことをした。  とりあえず足早に駅へ向かう。まだ追いつくはずだ。  駅へ向かう人波に押されながらも、必死に洋の後ろ姿を探した。  もう辺りは暗い。  それでも私は洋を探す。絶対に見失わない。  不思議とそんな矛盾のある自信を持っていた。 「洋、どこだ?」  やがて人波から外れた街路樹の下で、落ち葉の上にぽつんと立つ青年の姿を捉えることが出来た。  どこにいても美しい洋。  通り過ぎる人達が、君のその整った顔をちらちらと盗み見していることに、気が付いていないのか。  思わず見惚れてしまう程の切なさを纏っている。  洋に染みついた切なく儚げな雰囲気は持って生まれたもので、どんなに幸福になっても、私がすべてを消すことが出来ないのが不甲斐ない。 「今日は悪かった」  洋に近づき背後からそう伝えると、洋ははっと振り返った。  黒い瞳が滲んで……泣きそうな顔をしていた。 「丈、何で?」 「馬鹿だな。洋のことならなんでも分かるのに」 「あ……高瀬さんはよかったのか」  そんな心配をする洋のことが、本当にいじらしく可愛い。 「あぁ仕事で数回絡んだだけだ。もうこの先はプライベートな時間だから関係ない」 「ふっ……まったく」  洋はいくらか気が抜けた顔で、微笑んだ。 「洋。何か困ったことが起きたんじゃないか」 「え、なんで分かる?」 「お見通しだよ。洋の表情の一つ一つに意味があるから」 「じゃあさっき何であんな……いや、最初に仕事中だと言ったのは俺の方だ」 「悪かったよ。洋が可愛くて虐めたくなった。つい……」  洋は苦笑していた。  でも許してくれている。  そんな甘い笑みだ。 「丈、そんな子供じみたことを。実はノートパソコンが壊れてしまったようで……困っていた」 「壊れた?」 「うん、電源が付かなくて……必死に手書きでメモを取ったよ」 「どれ見せてみろ。あぁここじゃ暗いな。駅前のカフェに行こう」 「助かるよ」 ****  明るい店内。  洋はカフェラテに蜂蜜を入れて、美味しそうに飲んでいた。  子猫がミルクを飲むような、甘い笑顔を浮かべていて無防備だ。  赤い小さめな舌が誘うようだ。  そんな顔で煽るな。  すぐに欲しくなる。 「どう?壊れてしまったのか。やっぱり朝……落としたからかな?はぁ参ったな。データが入っているのに」  心配そうに覗き込む洋に、苦笑した。 「洋、あのなぁ……これはただの充電切れだ。昨日ちゃんと充電して寝たのか」 「あっ!」  しまったという表情。  やれやれ、これだから洋を近くに置いておかないと心配なんだ。  この美しい顔で、こんなに抜けているとは……本当に嘆かわしい。 「充電器は?」 「あれ? おかしいな。入れたはずなのに」  ガサゴソと鞄を覗いているが、案の定ないようだ。 「やれやれ……宿に忘れたな。翠兄さんも案外ぼんやりしていて、あてにはならないからな」 「ううっごめん。俺昨日仕事したまま寝てしまって、朝寝坊してバタバタでさ」  頬を染め恥ずかしがる洋の様子に、私はほくそ笑む。  洋は私がいないと駄目な方がいい。  秘かにそう思ってしまう。  洋はもっとしっかりしたいと頑張っているが、私ももちろん応援しているが……いつまでもこういう面を残していて欲しい。  私が助けてあげるスペースを空けておいてくれ。

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