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互いに思う 4
あれから洋と薙と簡単な朝食を食べてから、私は出勤した。白衣に着替えて真っ先に向かうのは、もちろん翠兄さんの病室だ。
「翠兄さん、入りますよ」
「……どうぞ」
あぁ、良かった。大丈夫そうだ。
声を聞いただけでも分かる。
翠兄さんは打ちのめされていない。
平常心を取り戻している。
どうやら昨夜の薬がよく効いたようだと、カーテン越しに頬が緩んでしまった。
それにしても……昨夜、私がパニックを起こさずに対応できたのは、洋のお陰だ。洋と私が結びついていなかったら、昨夜のような対応は無理だったろう。理解の範疇を超えていると、匙を投げてしまったかもしれない。
『すべてのことには意味がある』
本当にそう実感する瞬間が折に触れて起こる。
私が選んだ……洋と歩む道が正しかったと、後押ししてくれているようで勇気をもらえる。
薄クリーム色のカーテンをさっと開くと、質の良さそうなブルーグレーのパジャマを着た翠兄さんが、上体を起こしベッドにもたれていた。兄さんは私を見てると、いつもの穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「おはよう丈、朝から悪いね」
「兄さん、おはようございます。あれ? 流兄さんは」
「コーヒーを買いに行っているよ」
成程こだわりの流兄さんらしいな。それにしてもいつの間にこんな上質のパジャマを用意したんだか。これは売店で売っているような安物ではない。翠兄さんによく似合う上質で肌触りの良さそうなものだ。コーヒーだって、きっと自動販売機のものでは物足りずに、外に買いに行ったのだろう。
「……具合は良さそうですね」
「あっうん、そうだね。昨日は迷惑かけてしまったね」
「私もやっと兄さんの役に立てて良かったです」
「その、丈も全部知ってしまったんだね。全部、僕が全部悪かったんだ。意固地になって周りを頼らず、その結果がこうだ」
「そんな言い方しないで下さい。兄さんは兄さんらしかったと思います。いつだって……今だって」
「丈……お前……」
健気な翠兄さんの言葉が、涙を誘う。
私は長い年月、一体この兄の何を見ていたのか。
穏やかで長兄らしい真面目な性格。楚々とした雰囲気で隙がない優等生タイプ。人当たりもよく人付き合いもよい兄。そんな表面上の姿だけを見て眩しく思っていたんだ。ずっと……
「兄さんから学ぶことが多いです。じゃあ診察してもいいですか」
「丈……ありがとう。お前が置いて行ってくれた薬はよく効いたよ」
「それは、テキメンだったようですね」
翠兄さんの頬が、少しだけ赤らんだ。
「うっ……お前とそういう話をするのは、恥ずかしいね」
「さぁ診察しますから、横を向いてください」
「うん……」
手袋をして丁寧に確認していくが、心配していた裂傷もなく、綺麗になっていた。後処理の方もしっかりされていたようで、これなら一安心だ。
医師として兄の下半身の具合をしっかりと気持ちを切り替えて診察し、退院の許可を出すことができた。
「おっ、丈、来てたのか」
「えぇ流兄さん」
「翠、コーヒーだ。それから退院する時の着替えも」
「相変わらず準備万端ですね。流石だ」
「まぁな。翠にはいつも上質な肌触りの衣類を着て欲しいし、美味しいものを口にして欲しいから」
「また流……僕はそんなに贅沢じゃないよ」
「いや駄目だ。翠のためなら何でもしてやりたい」
「流……お前」
良かった。いつもの調子にふたりとも戻っている。
これならば……もう退院しても大丈夫だろう。
「丈、どうだった? もう退院できそうか」
「ええ、もういつでもいいですよ」
「よしっ! やったな。翠、早く帰ろう! 俺たちの家に」
その言葉にはっとした。
私も以前洋に同じ言葉を伝えたことがある。
私たちの家……月影寺は、そういう存在だ。ふたりで帰る家があるということが、どんなに幸せなことか知っている。
「わっ、翠……なぜ泣く」
流兄さんの慌てた声ではっと振り向くと、翠兄さんはその美しい瞳から一粒の涙を落としていた。それは朝日に透けるような透明な涙だった。
「だって遠い昔の僕には、どんなに望んでも叶わなかったことだったから。一緒に帰る家があるってすごいことだな」
「翠……」
「流兄さん、私の乗ってきた車を使ってください。これ、鍵です」
「丈、何から何まで本当にありがとうな。あっそれからお前のアドバイス最高だったぜ。病院のシーツさ、派手に汚して悪かったな」
「おいっ流……もうそれ以上余計なことを言うんじゃない」
最後は流兄さんらしい軽い口調で場が和み、ふたりはそれから荷物をまとめて、私の車で帰宅することになった。
「じゃあ悪いな。車借りるぜ」
「大丈夫ですよ。あとで洋に迎えに来てもらいますので」
「ははっ、今日は奥さんのお迎えか~! いいな。相変わらず新婚モード全開だなっ」
「ちょっ、こんなところで大声で、静かにしてくださいよ!」
病院の駐車場で、どんどん小さくなっていく車を見送りながら……翠兄さんと流兄さんに幸あれと願った。
互いに思い合うことによって生み出されるパワーは、とても強力だ。だからこの後の処理もきっと大丈夫だろう。もしかしたら今後、屈辱的なことを警察に聞かれるかもしれない。でも翠兄さんには流兄さんが付いている。それがどんなに心強いことか。
私と洋もそうやって一歩一歩進んで来た。兄さんたちもきっと良い方向へ向かっていくだろう。
見上げれば、どこまでも澄み渡る冬の晴天だ。
遅くに始まった紅葉も、いつの間にか終わり間近になっていた。木々には数枚の葉を残すのみで、足元にはまるで絵画のように色鮮やかな銀杏や紅葉の葉が舞い落ち、朝露にしっとりと濡れていた。
息を吐けば白く……ブルっと寒く感じる。
もう十二月も中旬か。
これからどんどん冷え込んで来るが、心温まるイベントの多い、よい季節がやってくる。
とても大きな仕事を終えたような満足感を感じ、私は空に向かって大きく伸びをしながら、清々しい気持ちで勤務に戻った。
今回の事件を通して、私と兄さんたちとの距離がまた一歩縮まった。
そのことは、私の心の奥をも温かくするものだった。
ずっと意固地になっていたのは私だ。兄たちの中に入れず、突っ張っていたのは私だ。
固く閉ざされていた壁が、どんどん崩れていく。
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