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『月のため息』(丈・洋編 1)
「洋、明けましておめでとう!」
「丈、明けましておめでとう。今年もよろしくな」
月影寺の離れで、二人だけで新年を迎えた。
俺達が同じ戸籍に入って初めての正月だ。
昨夜の寺は大忙しだった。俺も手伝ったが、除夜の鐘の音を間近で聴くのは初めてだったので感動した。108回の梵鐘の澄んだ音は深夜の澄んだ空気と相まって、俺の心にも染み渡っていった。
澄んだ空気に映える翠さんの凛とした姿に、翠さん目当てで集まった女性陣は皆、深いため息をついていたな。 そんな翠さんのことを同じ袈裟姿の流さんがすぐ後ろに守るように立っていて、その光景に見惚れてしまった。まるで王子様を守る騎士のようで……翠さんも流さんがいてくれるのが心強いらしく、時折視線をさりげなく交わしていた。
もちろん翠さんと流さんの恋仲を知るのはごく限られた身内だけなので、何も知らない人はただ副住職が近くに立っているとしか思わなかっただろう。
「それにしても翠さんは、だいぶ具合が悪そうだったが、大丈夫だったか」
「あぁ兄さんは昔から熱を出しやすいんだ。私があれから診察もしたし薬も処方できたので、そう悪化はしていないはずだ。まぁ……流兄さんが何もしなければの話だが」
「また! 丈は変なことばかり言う」
「さぁそろそろ朝食にしよう」
「今日はここで食べるのか」
「あぁ流兄さんがそうしろって。新婚さんは水入らずで新年の朝くらい迎えろと言ってくれたし、おせち料理も差し入れてくれたからな。手伝いに行くのは午後からでいいそうだ」
「流さんのお手製おせちか、それは美味しそうだな」
新婚だなんて照れくさい。でも流さんはいつだって俺達のことを丁寧に大切に扱ってくれる。理解してもらえるのは本当にありがたいことだ。
それにしても昨年は本当に様々なことが起きた。
年が明けてすぐにソウルから帰国し、戸籍のことでニューヨークに行き、松本さんのことで軽井沢を往復したり、七夕の結婚式の朝には滝で溺れかけたし……夏の宮崎旅行、あれも忘れられない思い出だ。秋の京都も感慨深いものだった。
今年はどんな一年になるのだろうか。
また何処かへ旅をするのだろうか。
昨年は期待と不安に満ちたスタートだった。日本に帰国してどうなるのかまだ掴めなくて、怖くもあったのに、今年は違う。新しいスタートを日本の俺達の家で、丈と一緒にこうやって穏やかな気持ちで迎えられるのが嬉しい。
「そうだ。Kaiにはもう新年の挨拶をしたのか」
「あっ、まだだった。今から電話してみるよ」
「先に朝食の支度をしているから、しておいで」
クリスマスに、Kaiと松本さんの連名でカードをもらっていた。季節の挨拶と共に、今度新しいホテルを共同でオープンさせるという報告が添えてあったので、詳しいことを聞きたいと思っていた。
****
「もしもしKaiか」
「おお! 洋だな。새해 복 많이 받아(セヘ ボン マニ パダ)」
「懐かしいな、久しぶりの韓国語だ。あけましておめでとう!」
「洋は、まだ韓国語はちゃんと覚えているか」
「もちろんだ!」
「それなら良かったよ。実はさ、洋に折り入って頼みたいことがあって」
珍しいな……Kaiからの頼みなんて。
いつも俺が頼ってばかりだったのに。
「なに?」
「クリスマスカードに書いた通り、俺と優也さんとで今度新しいホテルをオープンさせる予定で、今、俺の実家を改装しているところ。ところが日本語が出来るスタッフがどうしても足りなくてな。洋、頼む! オープニングスタッフとして、こっちに手伝いに来て欲しい。洋なら韓国語も英語も堪能だし信頼できるしで、バッチリなんだ。適任だと思う!」
驚いた! そんな依頼を新年早々受けるなんて思ってもいなかった。
「えっ……それはどの位の期間の話だ?」
「まぁ応相談だが、オープン前後の軌道に乗る一か月程度かな。あ……でも丈さんが怒るか」
「うーん、丈と相談してみるが、前向きに検討してみるよ。Kaiと松本さんのために、一肌脱ぎたいから」
「おお、嬉しいよ。今日も正月返上でふたりで準備してるんだ。猫の手も借りたい気分だぜ。来られそうなら早めに連絡してくれ。いい返事を期待してるぞ」
「分かった!」
通話を終えると、食事の支度をしていた丈がやってきた。
「Kaiは元気だったか」
「んっ……あのさ、Kaiと優也さんが新しいホテルをオープンさせるって話をしたよな。ほらクリスマスカードに書いてあっただろう」
「あぁ、そうだったな。それで、何か頼み事でも?」
丈も俺が言い出し難そうにしているのを察したらしく、優しく促してくれた。
「実はオープニングスタッフとして手伝って欲しいって言われた」
「え? 洋がソウルに行くのか」
「うん……人手が足りていないらしくて、出来たら行ってやりたいが、どう思う?」
「……どの位の期間だ?」
丈も同じことを聞いて来た。
「うん、長くても一か月ほどみたいだ」
途端に丈が不機嫌そうなムッとした表情を浮かべた。なので……新年早々恋人にこんな顔をさせてしまったことを反省した。
「あ……でも丈の意見を尊重したい」
そのあと丈はしばらく無言だった。俺、余計なことを言ってしまったよな。新年早々居た堪れない気持ちになってきた。ちらっと様子を伺うと、丈は意外な言葉をくれた。
「一か月だけだな。分かった。頑張って来い。洋は今年はもっと外に出て行きたいと思っているのだろう。それは分かっているが、私はまだ洋をひとりで行動させるのが心配だ。だがKaiと松本さんの所ならば別だ。安心できるし……ソウルと日本は近いから、私も週末には会いに行けるしな。これは折衷案かもしれないな」
「ほ、本当に行ってもいいのか」
「当たり前だ。洋だって男だ。もっといろいろなことに挑戦したいという気持ちが芽生えて当然だ、昨年の京都での通訳の仕事の奮闘を見て、そう思っていたのに、なかなか私が背中を押してやれずに済まなかったな」
「丈……そんな風に思っていてくれたなんて嬉しいよ」
丈に認められて信用されているのが伝わってきて、嬉しかった。丈の言う通りだ。俺だって歳をとる……そして気持ちも心も確実に以前より逞しくなってきているのを感じていた。もちろん丈と今の関係を維持するのが大前提の話だが。
「ありがとう!」
丈が理解して歩み寄ってくれたことが嬉しくて、思わず気持ちが高まり、丈の首に手を回し抱きついてしまった。するとふわりと良い香りが鼻腔に届いた。
「あ……この香り。俺がクリスマスプレゼントであげたやつ?」
「そうだ。休日には気に入って使っているよ」
クリスマスプレゼントに俺が皆に送ったのは、男性用のフレグランスだった。パーティーに集まった人たち……それぞれをイメージしてひとつひとつ違うものを選んだのだ。
丈のは『マウンテン』という名前で、冬の山荘で穏やかに過ごすひと時をイメージしたウッディーな香りだった。まるで深い森で深呼吸しているようなリラックスした気分になり、丈のイメージにぴったりだと改めて思った。
「これ、俺の一番好きな香りだ」
もう一度深呼吸して、吸い込んだ。
優しい恋人の香りに、朝からもっともっと酔いたくなってしまったから。
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