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始動 4

「兄さん、少し待ってくれ」  流は洋くんから包丁を奪い、すごい勢いで蒲鉾や伊達巻を切り綺麗にお重に詰め出した。本当に手際が良くて、プロの料理人のようだといつも見惚れてしまう。 「よしっ! これで完成だ。洋くん悪いが少し俺達に時間をくれないか」 「え? あっ、はい」 「悪いな。両親の到着まであと30分あるから、テーブルセッティングしておいてくれるか」 「はい! それなら俺にも出来ます」 「よし頼んだぞ。さぁ、兄さん、行くぞ!」    僕の腕を流がぐいっと掴んだかと思うと、そのまま階段を上らされた。  僕の部屋に入るなりさっきまで寝ていた布団に押し倒されてしまった。そして当たり前にように流が覆い被さってくる。こういう時の流は本当に馬鹿力で、僕は何の抵抗も出来ずに、団に沈み込んでしまう。 「流っ、おい、どうしたんだ? ちょっと落ち着けって」 「さっき何があった? 何を思い出した?」 「え……」 「俺に言えないことか、言いたくないことか」  そういう訊ね方は、ずるい。  そのまま顎を掴まれキスされそうになったので、思わず顔を背けてしまった。 「駄目だ。僕は風邪をひいているし……それに……」  さっき……吐いたばかりだ。  口をゆすいだとはいえ……流を穢してしまうようで、どうしても嫌だった。 「翠……お願いだ」  だが、一度、流の縋るような目を見てしまえば……僕の躊躇いは途端に収まってしまう。その眼差しに僕はとても弱い。  流の唇がそっと重なり、労わるように撫でてくれる。 (大丈夫だ。怖くない……)  まるでそんな言葉が籠ったような温かく静かなキスを受け入れると、次第に強張っていた心が解け出していくのを感じた。  流……だが……本当は……僕の躰はもう汚れているんだよ。  お前にはちゃんと話せてなかった。  最後の挿入だけは辛うじて防げたが、それ以外のものは全部奪われたも同然だった。僕の口に無理矢理ねじ込まれたあのザラついた舌や、躰を撫でまわした厚ぼったく汗ばんだ手の不気味な感触。  すまない……僕の躰に……あいつ体液が紛れ込んでしまった。  口を通じてアイツの唾液を……アレを飲み込むしかなかった。気が狂いそうな程……悔しいことだが。 「翠、そんな悲しそうな顔をするな。あの日すぐに全部俺で消毒してやっただろう。忘れたのか」 「だが僕は……僕は……」 「翠、よく聞け! 何があったのか……俺は全部知らない! 見ていてわけじゃないからな。それが悔しいし、阻止できなかったのが辛い! 高校の時も大学の時も先日だって……だが翠には全く非はない! 翠は汚れてない。もしも……強要され何かを受け入れたとしても、翠は綺麗だ。ずっと憧れていた俺の光は、今ここにいる翠だ」  畳みかけるように、流の言葉が降ってくる。 「うっ……うぐっ……んっ」  今度は息継ぎが出来ない程の嵐のようなキスに翻弄され、頭がぼんやりとしてしまう。 「流……、怖かった……何かの拍子に忘れたい記憶が襲い掛かってくるんだ。まるでそれは僕を捕縛するようで……逃れられない」  ポロリと漏れだす本音に、僕は泣いた。どこかに掴まっていたくて、覆いかぶさっている流の背中に手を回して抱きしめた。 「落ち着け……翠。大丈夫だ。大丈夫だから。これからもそういう時はすぐに俺を頼ってくれ。俺がこうやって抱きしめてやる」 「ん……流……ごめん」 「謝ることじゃない。自分を責めることが一番駄目だ。翠は悪くない、非があったわけじゃない」 「みんなに心配ばかり掛けて……せっかくクリスマスに元気な所を見せることが出来たのに……こんな調子では……駄目だな」 「駄目じゃない。こんな風に素直に甘えてくれる翠が好きだ」  そのまま、再び口づけを交わした。  あぁ……流に触れてもらえると、僕は自由になれる。  あの恐ろしい沼から這い出ることが出来る。  洋くんにも心配を掛けてしまった。  僕のせいで洋くんまで過去のトラウマを思い出さないといいが。  ****  新年の夕食。  別荘から久しぶりに戻ってきた父と母。そして息子の薙。丈と洋くんというメンバーで、和やかな時間を過ごした。  流が用意してくれたお重はほとんど手作りで、母の舌を唸らせていた。 「むむむ、我が息子よ!  やるわね。もうっあなたはいつでもお婿にいけるのに」 「ははっ、またそれですか。とんでもない。俺がいなくなったら兄さんと薙が暮らしていけないだろ」 「確かにそうだわ。翠は相変わらず、家事は不器用なのね。でも翠……あなた……元気そうでよかったわ……すごく心配したわ」 「……心配かけましたが、もう大丈夫です」  母が言うのは……克哉との事件のことだろう。  オブラートに包んだ報道だったし、流と丈が手を回して最小限で済んだ。それに事の詳細は母には知らせないように頼んだから……気が付かれていないといいのだが。  僕はもう立派な成人だから、母に要らぬ心配をかけたくなかった。まして今も風邪をひいて寝込んでいたなんて悟られたくない。ただでさえ昔から心配ばかりかけてきたのだから。  思えば……彩乃さんと結婚することで跡取りという立場を捨て、家を出るのを許してくれたのも母だった。父を説き伏せてくれたのも母だった。  あなたこそ真の月影寺の女主人だ。  父は婿養子だから母が月影寺を引き継いできたこともあり、僕が多くを語らなくても察してもらえることが多かった。 「あなたって子は……本当にいつまで経っても変わらないのね」  母は新年にふさわしくない深いため息をついた。でもその後、何かを見つけたかのように朗らかに微笑んでくれた。 「でも少しだけ変わったような気もするわ、もう……逃げないのね。どこにも行かないのね」

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