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始動 5

「どこにも行きません。もう、僕はずっとここに居ます」 「そうね、それがいいわ。翠がこの月影寺を守っていけばいい。あなたには薙もいるのだから」 「……はい」  母の言葉は少しも重荷ではなく、むしろ嬉しかった。  僕の居場所はここでいい。そう認めてもらえたような気持になれたから。 「薙もだいぶ打ち解けてきたようね」 「えぇ、最近は特に。あの子は僕の支えです」 「……そのようね。いろいろあったあなたの結婚だったけど、振り返ってみれば薙という存在は偉大ね」 「はい」  父さんと楽しそうに話している薙の様子を見つめながら、僕もそう思った。彩乃さんには申し訳ないことをしたが、薙という宝物をこの世に産んでくれて本当にありがとうと無性に伝えたくなった。  先日の一時帰国を思い出す。ずっと後ろめたい気持ちがあったのに……彼女はすべてを受け止め、フランスへと再び飛び立った。   「そういえば彩乃さんには新年に挨拶をしたの?  別れてもあなたたちは薙の両親よ。薙にとっては永遠に母親なのよ」 「あっすみません。失念していました」 「まったく……フランスは今頃新年の朝よ。電話してみなさい」 「はい」  本当に母に言われるまで、彩乃さんのことを忘れていて恥ずかしかった。彼女とは薙の父と母という立場で繋がっていようと約束したのに。 「薙、ちょっといいかい?」 「なに? 父さん」 「お母さんに電話してみよう」  薙は顔には出さないが、嬉しそうな表情を浮かべた。 「そうだね」 ****  フランスは今の時間なら……ちょうど新年を迎えた朝の十時位か。  彩乃さんに電話をしてみると数コールで出てくれた。着信に僕の名前が表示されるのだろうか、名乗る前から分かっていたようだ。 「あら? 翠さんから新年の挨拶なんて珍しいわね」 「彩乃さん、久しぶりだね。明けましておめでとう」 「本当に久しぶりよね。あれから連絡ひとつ寄越さないなんて、翠さんらしい。この電話だってどうせお母さまに急かされてでしょう」 「え……うっ……」  まったく女性というのは、何でこうも勘が鋭いのか。 「ふふっ、怒ってないわよ。それより翠さん、あなた大丈夫?」 「えっ」 「うーん気のせいかしら。少し元気ないような? 嫌なことでもあった?」 「……いや、大丈夫だよ。それより彩乃さんは元気そうだね」 「ん、まぁね。いろいろ吹っ切れたからかな」  相変わらず彩乃さんはポジティブで、明るく前向きな女性だ。  薙倒されても、また立ち上がって歩いて行ける強い人……でもちゃんと優しさも持っている人だった。その部分を僕はなかなか見つけられなくて、悪いことをした。 「彩乃さんは、何もない?」 「えっ……ちょっと翠さん……参ったわ。あなた本当に変わったのね、良い方向に。そんなこと聞く人じゃなかったのに。あぁ……私がそうしてあげれられなくて残念だったな。私は元気よ。今は仕事が恋人かな。でもいずれはフランスでいい人が見つかったらいいと思っているわ。私は本当にここが好き。空気が合っているみたい」  僕はそんな酷い人物だったのか。  そこまで……元妻のことを気遣ってなかったのか。 「……ごめん、僕は酷いことばかりしていたね」 「あっ違うわ。翠さんはいつも優しかったわ。でも何というか……心がそこになくて……でも今は違うのね。私のことも本当に気にかけてくれているのを感じたわ。嬉しいわ! えっと……薙にかわってもらえる?」  彩乃さんも少し照れくさそうにしていた。そんな彼女とのやりとりに、やっと僕たちが薙の親としてスタートラインに立てたような気がした。 「彩乃さんと話していると元気をもらえるよ、ありがとう。今薙にかわるね」 「もしもし母さん。うん……あぁ……わかってるって!」  薙はぶっきらぼうに、でも聞かれたことには丁寧に答えていた。  そんな様子を見つめていると流の視線を感じた。流が僕たち親子のことを、穏やかに見守ってくれているのが分かる。  流……お前がいるから……今こんな和やかな気持ちで彩乃さんとも話せるのだよ。  僕の心を流は受け止めてくれたようで、明るい笑顔を見せてくれた。  僕は流が眩しい。  明るいところにいる弟が愛おしい。  いつもいつだって……流が好きだったから、好きだから。 ****  翠さんが薙くんと共にフランスに電話をしている様子を、丈と微笑ましい光景だと見つめていると、丈のお父さんに話しかけられた。 「洋くん元気だったかい? 君たちと話すのは久しぶりだな」 「はい。元気に暮らしています」 「うんうん、顔色も良くなって少しふっくらと頬に肉がついたようだな」 「えっ? そうですか」 「あぁ……幸せそうでほっとした。翠のことでも助かったよ。どうなるかと思ったが、翠の元気そうな姿を見ることが出来てほっとしたよ」 「……ありがとうございます。翠さんのことは皆で見守っています」  おこがましくも率直な感想を述べると、お父さんは目を細めた。 「ありがとう、君たちがついていてくれるから心強いよ。そうだ洋くん、君も親戚にちゃんと新年の挨拶をしたかな? 君にもN.Y.に伯母さんや伯父さんがいると聞いているが」 「あっ、まだです。向こうはまだ朝なので……」  驚いた。そんなことまで把握してくれているなんて。  涼の両親は俺にとって唯一の親戚だ。確かに新年の挨拶をした方がいいのかな。でもそういう仕来りに慣れていなくて戸惑ってしまう。 「父さん、あとで涼くんと一緒にしますよ」  丈が助け舟を出してくれる。 「丈もちゃんと挨拶するんだぞ。そういえば……その、洋くんの従兄弟が正月はここに泊まると聞いていたが、ここにはいないようだが」 「急に仕事先から呼び出されて、明日にはまた来ると思うのですが」 「仕事……あぁそうだったね。モデルの仕事だったね、母さんが良く騒いでいるよ」 「母さんが? それは危険ですね」 「はははっ! そうなんだよ。実に危険だ危険!」  丈のお父さんは愉快そうに肩を揺らした。   「あなた、また余計なことを! 駄目ですよ。さりげなく観察するのがモットーなのに」 「はいはい。やれやれ怖い奥さんに見つかったぞ」  それからは、ずっと和やかな団欒の時だった。  お屠蘇も飲んだし、乾杯のスパークリングも赤ワインも……本当に気持ちよく飲んで、ほろ酔い気分になっていく感覚にまた酔った。  こんな風に酒に身を任せても、ここなら大丈夫だ。それが心地良くて溜まらない。  昔はずっと……酒に酔うことを恐れていた。酔って動作や思考が鈍くなることが怖かった。その先によからぬ何かの気配を感じ怯えていた。  本当にここはいい。  月影寺の正月は、最高だ。  そんな思いを噛みしめながら、俺は、またグラスに口を付けた。

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