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安志&涼編 『僕の決意』9
ふっと目覚めると辺りは真っ暗で、すぐには自分がどこで寝ているのか分からなかった。
あっそうか……ここは月影寺の客間か……ううっ、それにしても頭が痛いな。
どうやら酒飲み過ぎたようだ。喉も乾いたので水を飲みに起きようと思ったら、突然背後で人の気配がして、俺の腰をぎゅっと抱きしめる大きな手を感じた。
途端にゾクッと躰が強張った。
「え……」
思考が、そこでぴたりと停止した。
首筋にかかる酒臭い息の匂いに、突然、脳の奥に押し込めた記憶がぶわっと蘇ったからだ。
あ……駄目だ……これは思い出してはいけないものだ。だが、一度蘇った記憶というものは、俺の意志なんて関係なしに襲い掛かってくる。まるでさっきの翠さんのような状態に陥り、軽いパニックを起こした。
この映像は……まだ中学生の頃の冬休みだ。
俺は冬休みが大っ嫌いだった。夏休み期間は、義父の仕事が忙しいらしく世界中を飛びまわり、日本にいることが少なかったのに、冬休みに入ると会社の年末年始の休みの期間、ずっと家にいた。
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冬休みに入っても部活動がない俺は、連日家にじっと閉じこもっていた。
本当はこの家にいたくないが、どこかに遊びに行く余裕がなかった。義父はお小遣いはくれず……その日の昼食代しか渡してくれないので電車賃や遊ぶお金を持っていない。それに近所で遊ぶような友人なんて……安志以外いないから、仕方がないと諦めていた。
はぁ……せめて安志に会いたいな。でも冬休みも相変わらず朝から晩まで野球の部活で忙しそうだ。
冬休みの宿題をしながら夜を待つだけなんて……どこまでも暗いため息しか出ない毎日だ。
やがて夜になると、いつもより早く会社から帰宅した父が、俺の部屋にやってきた。
あぁ、またこの時期になってしまったのか。去年のことを思い出すと、身体がブルブルと震えてしまう
一体いつまで俺はこの人と生活していくのだろう。血も繋がってない、母が亡くなるまでの数年を過ごしただけのよく知らない大人の男性と。
早く大人になりたい。自分でお金を稼いで、自分の力で生きたいよ。一番寛げるはずの自宅が、今の俺にはどこまでも怖い場所だった。
「洋、ただいま。冬休みの宿題は今日中に終わりそうか」
「お帰りなさい。はい……」
「よしよし、いい子だね。明日から私の仕事が休みになるから、ずっと一緒にいられるな。明日からは宿題なんてしている暇はないからね」
「……」
「さぁ今日は久しぶりに、お父さんと一緒にお風呂に入ろう」
躰が震える。ここ暫く義父は忘年会で忙しく帰宅が深夜すぎだったので、風呂は免れていたのに……途端に強い嫌悪感がこみ上げてしまう。
「あの……俺はもう……お父さんとは一緒に……入りたく……」
「洋? 何を言って? まさか一緒に入るのが嫌なのか。一体お前は……誰のお陰でこうやって暮らせていると? 私がいなかったら毎日どうやって暮らしていくつもりだ? 食事はどうする? お腹が空くのは苦しいぞ。学校はどうする? 行けないとずっとここにいるしかないんだよ」
義父の眼が、冷たく光った。こういう時の義父は怖い。普段は温和そうに見えるのに、何かのきっかけで豹変してしまう。
「……」
こんな生活……誰にも言えない。だって……きっと変なことだから。
俺は14歳になっても、未だに義父と風呂に入ることを強要されていた。こんなことオカシイ。実の親だってもう一緒に入らないだろう。ましてこの人は義父なんだ……血も繋がってない大人の男の人と裸で風呂に入るのが一番嫌だった。
だが最後まで拒絶できないのは、決定的な何かをされたわけではなかったから。
でも……絡みつくような熱い視線を身体中に向けられ……腰を抱かれて湯船に一緒に浸かる……これはオカシイことじゃないのか。
「あぁ洋。お風呂は気持ちいいね。あぁごめんね。気持ちいいと大人の男のここはね、自然とこうなってしまうんだよ。洋のここはまだ幼いから分からないだろうがね。大人になったらこうなるんだよ。だからこれはオカシイことではないんだよ」
そんな言葉でずっと洗脳されていた。
脚の間に座らされ……尻にそれがあたるのも、オカシイことじゃない。
そう必死に目を瞑って思うようにした。
風呂からあがると丁寧にバスタオルで拭かれ……幼い子供みたいに義父の手でパジャマを着せられる。
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あの頃の俺には何が正しくて何がオカシイことなのか、判断する力がなかった。俺は悪くない。なのに、すぐに次の嫌な記憶が待ってましたとばかりにやってくる。
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「さぁ先に寝ていなさい。私は少し酒を飲むから」
「はい……」
父の手元を見ると……グラスの中のブランデーがとろりと妖しく揺れていた。あれを飲み干したら今日もやってくるのか。俺のベッドに。
もう嫌だ。こんなの変だろう? 中学生になっても……義父に添い寝してもらうなんて!
そう叫び出したい気持ちをぐっと堪える。
母の葬儀で……俺は学んだ。
まさか母が亡くなったいうのに、誰ひとり参列にやってこないなんて。親戚が少ないとは聞いてたが、まさかひとりもいないなんて。父が亡くなった時もそうだった気がするが……俺はまだ幼く記憶がおぼろげだった。
俺には頼れる親戚がいない。ひとりも……
じゃあ……俺はどうやって生きて行けばいいのか。家にお金がないことは知っていた。母が身体を壊しながら必死に働いていたのを知っているから。
俺が生きていくために縋るのは、この人しかいないのか。
「とうとう夕が逝ってしまったね。今日から洋と二人きりの父子家庭だな。私がいるから安心しなさい。ちゃんとお前のことを大人にしてあげるからね」
寄り添うように俺の横に立り、当たり前のように肩を抱いてくる喪服姿の義父に、嫌悪感が強まった瞬間だった。
やがて俺の部屋の扉が開かれ、ブランデーの匂いをプンプンさせた義父が俺の布団に我が物顔で潜り込んでくる。
「洋、いい子だね。寂しかっただろう? お父さんが一緒に眠ってあげるよ」
そんな甘い言葉とは裏腹に、どこか興奮したような息が首の後ろにかかる。酒臭さと息の生臭さに吐きそうになるのを我慢していると、やがてなにか固いものが尻の付近にあたる。
泣きたいような気持で、胸が塞がる。
「あぁ洋の若い匂いが可愛くて、まただ。これは困ったね……洋が大人になったら分かるよ、この気持ち」
そんなことを囁かれながら、震えながら……眠りにつかないといけない日々。
必死に寝たふりをして、涙を隠した日々。
****
今……俺の尻に擦り付けられているモノは、あれと同じだ。蘇った記憶が、突然現実になったような恐怖で、身が竦む。
いや、しっかりしろ。もう俺は、あの頃のように幼い、抵抗できない躰ではない。今の俺はもうあの人と決別し、今は丈と幸せに暮らしているはずだ。
「うっ……やっ……」
いよいよその動きが緩やかに上下に動き出したので、もう耐えられず悲鳴を漏らしてしまった。
こんなのいやだ! なのに……躰が過去に縛られて動かない。
だが、こんな風に俺の躰を誰かのいいようにされるのはもっと嫌なんだ!
絶対にイヤだ!
今、手に入れた幸せを守るのは自分だ!
俺にしか出来ないことがあるはずだ。
はっと……思い出した。涼から教えてもらった護身術を。
意を決して、抵抗しないと油断している身体を一気に大きく動かした。
右の脇で相手の左腕をはさむようにして押さえ、身体を勢いよく回転させて、左肘を顔面かみぞおちに叩きこんでやった。さらに相手の手を掴み、その手を引きながら股間に一発蹴りを、渾身の力で叩きこんでやった!
「うわぁー!」
俺の尻を弄っていた痴漢野郎は、見事にぐるぐると回転して襖にドスンっとぶつかった。
やった! 俺にも出来た!
俺もやっと……抵抗できたんだ。
もう、やられっぱなしじゃない!
涼に報告したい! 丈にも安志にも……皆に報告したくなるほど、自分が誇らしく感じた瞬間だった。
「おいっ、この痴漢野郎っ! お前は一体誰だ!」
はだけた浴衣姿で部屋の端に蹲って苦しそうに唸ってる男の顔を確認しようと、電気を急いでつけた。
その男が……痛みに顔をしかめながら上を向くと、
「えぇっ?」
「えっ!」
お互いの驚きの声が、思いっきり重なった。
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