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慈しみ深き愛 27
玄関から薙が連れて来たのは、達哉の元で暮らす拓人くんだった。
彼がきまり悪そうな表情を浮かべながら薙に手を引かれて部屋に入ってきたので、僕は温かい気持ちで迎え入れた。
彼もまた……親を亡くし兄弟と離れて暮らす寂しい子なのだ。
「こんばんは……あの……急にすいません。翠さんにこれを……あの、建海寺からの差し入れです」
「拓人くん、よく来たね。さぁここに座って」
拓人くんを洋くんと向かいになる誕生日席に座らせ、渡された風呂敷包みを開くと、重箱が入っていた。
「何かな?」
「あの……雛菓子なので、もしかして雛祭りのお祝いをしていたなら、ちょうどいいかも」
「そうか、その通りだよ。今日は洋くんの誕生日を兼ねて祝っていた所なんだ。さぁ君も参加するといい。達哉も呼ぼうか」
「あっ、達哉さんは仕事があって」
「そうなのか。残念だな。じゃあ流、達哉に土産を……少しちらし寿司を包んであげてくれないか」
「はいはい。兄さんの仰せのままに」
自然な流れで、彼を食卓に招き、そのまま会食を続けることになった。
「綺麗な和菓子だね、立派だ」
拓人くんが持って来てくれた重箱の中には、色とりどりの雛菓子が並んでいた。お雛様やお内裏様を模ったものや、桃の花の形……お陰で食卓が更に華やかなものとなった。
僕には娘はいないのに、何故だか淡い色のお菓子を眺めていると、懐かしく甘酸っぱい気持ちになってしまった。もしかしたら……遠い昔の僕は、可愛い女の子の父親だったのかもしれない。
「喜んでもらえて嬉しいです」
それにしても、素直に嬉しそうな表情を浮かべる拓人くんの笑顔は、まだあどけない。彼もまだ薙と同じ14歳の少年なのだから当たり前なのだが。
「おい、拓人、お前どれ食う?」
「薙はこのお雛様か」
「なんでオレが!」
拓人くんが薙と少年らしい顔で笑い合っている様子に、ほっとした。
彼と最後に会ったのはいつだろうか。もしかして遠慮しているのか気まずいのか……この寺には、あの事件以降なかなかやって来ない。そんなの気にすることはない。彼はあの男とは血が繋がっているわけでもなく、むしろ言いなりにさせられた被害者でもあるのに。
それから女装姿の薙を相手に、自然に接してくれているのも、とてもいいね。
人はつい相手の外見ばかり見てしまうが、もっと大事なのは心の内側だ。
外見に惑わされることなく内面を見つめ受け入れてくれる存在の心強さを、僕は知っている。
それに反して、あの男は僕の顔や躰にばかり執着して、僕の心なんて……屈辱で切り刻むことしか関心がない、本当に酷い、酷い男だった。
最後には、とうとうあんなことを仕出かすなんて。
「おい……翠、今は余計なこと考えるな。振り返っては駄目だ」
拓人くんを見ているうちに僕の考えが少しずつマイナスになっていくのを察したのか、向かい側に座っている流がさりげなく励ましてくれた。そうだ、悪い思考は停止しよう。気を取り直して、僕も会話の輪に入っていく。
「そうか、薙も拓人くんも春には中学三年生で受験生なるんだね」
「うっ……父さん嫌なことを……オレたち成績が相当ヤバイから支え合っていこうな」
「おい薙、一緒にするなよ。最近の俺は真面目だぜ」
「えっ! 抜け駆けは、ずるいぞ!」
「うーん、確かに薙くんの英語の成績はまずいかも。もしかして俺の教え方が悪いのかな」
洋くんも首を傾げて、苦笑していた。
「あぁ~洋さんまで!」
「俺が特訓するよ。三学期の期末も、もうすぐだしね」
「洋くん、薙のこと頼むよ」
確かに薙は誰に似たのか、学校の成績が振るわない。特に英語は壊滅的で、僕も父親として頭が痛かった。
「父さんまで……」
でもね、薙……本当はテストの成績なんて、僕にはあまり重要ではないんだ。お前がこの世を生き抜く力を、強く持っていてくれるのが嬉しい。
僕にはなかった逞しさ。困難や苦痛を跳ね飛ばす、薙ぎ倒す力を持っているのが一番嬉しいよ。僕のような回り道の多い人生を歩まないで欲しいから。
あんなに突っ張っていた薙があの事件以来……僕に心を開き、僕の前では素直ないい息子でいてくれるのも、今の僕にとって、本当に癒しになっている。
お前が僕のために無理をしていることは察しているのに、甘えずにはいられない……弱い僕を許して欲しい。
正直……あの男から受けた傷は、今までで一番深かったから。
でもあの時みたいにショックで、心と視界を閉ざすわけにはいかないんだ。今の僕にはすぐ傍に流がいてくれて、息子の薙も弟の丈や洋くんもいてくれるのだから。
僕は……この世を、僕の人生を見続けたい。
最後までこの目で見届けたい。
慈しみたい人が、こんなにすぐ傍にいるのだから。
慈しみ深き愛で、僕のこの先の人生を満たしていきたい。
****
雛祭りの会食を終えると、丈と洋くんは仲良さそうに離れへ戻って行った。
久しぶりの夜になるのだろう。
いや……もう存分に寄り道したようだったが。
夜遅くなったので、拓人くんのことは流が建海寺に送ってくれたので安心した。それから、薙と僕はそれぞれの部屋に戻った。
夜更けすぎ……
皆、寝静まった真夜中のことだった。
僕の部屋に、音も立てずに……流が忍び込んできた。
流の気配に、はっと目が覚めた。
「翠、起きれるか。行こう。これ羽織って」
寝巻にコートを掛けられ、静かに外に出るように促された。
「流……どこへ?」
三月上旬と言えども、北鎌倉の朝晩の冷え込みは真冬並みだ。鳥肌が立つほど寒くて歯がカチカチするのに、流に手を引かれ黙々と寺の中庭を歩かされた。
「本当にどこへ行くんだ? こんな真夜中に、まさかあそこに?」
「決まっているだろう、茶室だ」
「だって茶室は雨漏りしているから使えないって、お前が……」
「今日は……雨は降らない」
「そんなの理由に……」
無言で茶室に押し込まれると想像よりは寒くなかった。見回すと既に火鉢に炭が熾され、仄かに温かくなっていたからだ。
「翠、もう我慢と心配で……俺は限界だ」
そう言いながら流が僕を敷き布団の上に押し倒し、勢い余った様子で瞼にキスをしてきた。
流は、もう一心不乱だ。
温もりを必死に与えるように、何度もキスの雨で、僕を溶かしていく。狂おしい程に。
「んっ……あっ……苦しっ……」
それから流が大きな手のひらで、僕の顔を確かめるように撫でてくる。髪を指で梳いていく。その行為を何度も何度も繰り返してから、ようやく息を整えた流が、心配そうな表情で覗き込んで来た。
「翠……目の具合はどうだ? ちゃんと俺が見えるか」
そう言えば……以前にもこんなことがあった。
この寺に戻って来た時、僕は視力を……ほぼ失っていた。
でもあれは……僕は眠っていたはずだ。
夢現だったのに……
もしかして、あれは夢じゃなかったのか。
あの時も、流はこうやって僕の目を癒そうと必死だった。
あの日々での、流の気持ちを思うと、胸が締め付けられるように切なくなる。
「流の顔……ちゃんと見えるから……大丈夫だから」
流の唾液と僕の涙が混じって、視界が歪んでいた。
それでも愛おしい人の顔だけは、はっきりと見えていた。
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