1133 / 1585
正念場 2
「あの……はじめまして。俺は……|張矢 洋《はりや よう》といいます」
「……『ハリヤ』? 聞いたことない名前だわ」
嘘をつくのは嫌なので、正直に今の姓名を名乗った。
駆け落ちした父の『浅岡』ではないので、この名字では祖母はピンとこないだろう。でも、これが今の俺だ。
「俺は……張矢家の養子になったので」
「養子? あ、あなたは本当に夕の息子なの?」」
祖母は眉をぴくりと吊り上げた。
「はい、俺の母は|浅岡 夕《あさおか ゆう》です」
「や……やめなさい、黙って。もうあなたのことはいいから、早く教えて頂戴。あなたの母親はどうして現れないの? 私が待っているのは、あなたではなく娘だと伝えたでしょう」
胸が塞がる思いだった。理解していたつもりでも……そこまでストレートに言われてしまうと、気持ちが急降下していく。
「ちょっと聞いているの?」
「……はい」
簡単に負けない、諦めない。
やっと……ここまで漕ぎ着けたのだから。
なんとか気を取り直して、シーグラスで作った写真立てを鞄から取り出し、白いテーブルクロスの上に置いた。中には若い頃の母と俺の写真が入っている。
「あっ……ゆ……う」
祖母の瞳が揺れた。懐かしそうに手を伸ばし、写真立てを胸に抱いてくれた。初めて祖母の頬が緩んだ瞬間だった。
「夕……私の娘、あぁ……今すぐ会いたいわ。今、どこにいるの? お願い……もう許すわ……だから戻って来て」
この言葉は、きっと母が最期に聞きたかったものだ。
俺の胸の奥も、ジンとする。
写真立ての中の母も、実母との再会を微笑んでくれたような気がした。
優しく祖母の胸に収まる写真立てを見て……持って来てよかった。シーグラスが祖母の心を溶かしてくれたと思った。
だが……現実はそこまで甘くなかった。
「ところで夕が来ない理由はどうして? 何か不都合があるの? 私に会いたくないとか……それとも病気とか……あの子は幼い頃から身体が弱かったので、心配だわ」
いよいよだ。
とうとう真実を告げる時が来てしまった。
どんな余波にも負けない。そう心の中では誓っていた。
「さぁ話して頂戴……今度はちゃんと聞くから」
「……母はもう来られないんです。永遠に……」
「何を? 言っている意味が分からないわ。どういうことなの?」
祖母の顔色がガラッと変わってしまった。
「母は亡くなりました……俺が13歳の時でした。乳がんでした」
「はっ? 何を言っているの?この写真の中の夕は笑っているのに……」
「本当なんです。だから俺が代わりに来ました。母の代わりに母の後悔を伝えたくて、この手紙を渡したくて……」
祖母は想像以上に取り乱してしまった。せめてこの母の手紙を読んでくれれば心が落ち着くのではと思い、俺も必死になった。
だが手紙は大きく振り払われ、床に飛んで行ってしまった。
「嘘っ……嘘よ。そんなでたらめを言うなんて……なんてひどい。分かったわ! あなたが夕の息子なんて真っ赤な嘘なのね! この大嘘つき! 帰りなさい! こんな写真で私を騙そうとしても無駄よ!」
手紙を拾おう冷たいタイルの床にしゃがんだ俺の耳元で、突然ガラスの割れる音がした。
ガシャン──
頬を鋭いものが掠め……その後ドクッと熱いものが流れ出るのを感じた。
「何をするんです! 白江さん落ち着いて!」
「離して! だって夕にそっくりな顔をして、酷いことを言うのよ! この男!」
床に投げつけられたのは、俺が作ったフォトフレームだった。
見事に床にあたり、ガラスのフレームが木っ端みじんに砕け散り、その鋭利な破片が俺の頬を切ってしまったようだ。
ポタっと……床に真っ赤な血が落ちる。
涙のように、規則正しくポタポタと……どんどん血が溢れてくる。
俺は頬の痛みよりも、ショックで動けない。
幸い店には俺以外誰も客がいなかったので、騒ぎにはならなかったが、白江さんは動転して、二階に駆け上がって行ってしまった。
「君! しっかりしろ! 大丈夫か」
蹲ったまま動けない俺に、紳士的な男性が慌てた様子でハンカチを差し出してくれた。
ともだちにシェアしよう!