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正念場 2

「あの……はじめまして。俺は……|張矢 洋《はりや よう》といいます」 「……『ハリヤ』? 聞いたことない名前だわ」  嘘をつくのは嫌なので、正直に今の姓名を名乗った。  駆け落ちした父の『浅岡』ではないので、この名字では祖母はピンとこないだろう。でも、これが今の俺だ。 「俺は……張矢家の養子になったので」 「養子? あ、あなたは本当に夕の息子なの?」」  祖母は眉をぴくりと吊り上げた。 「はい、俺の母は|浅岡 夕《あさおか ゆう》です」 「や……やめなさい、黙って。もうあなたのことはいいから、早く教えて頂戴。あなたの母親はどうして現れないの? 私が待っているのは、あなたではなく娘だと伝えたでしょう」  胸が塞がる思いだった。理解していたつもりでも……そこまでストレートに言われてしまうと、気持ちが急降下していく。 「ちょっと聞いているの?」 「……はい」  簡単に負けない、諦めない。  やっと……ここまで漕ぎ着けたのだから。  なんとか気を取り直して、シーグラスで作った写真立てを鞄から取り出し、白いテーブルクロスの上に置いた。中には若い頃の母と俺の写真が入っている。 「あっ……ゆ……う」  祖母の瞳が揺れた。懐かしそうに手を伸ばし、写真立てを胸に抱いてくれた。初めて祖母の頬が緩んだ瞬間だった。 「夕……私の娘、あぁ……今すぐ会いたいわ。今、どこにいるの? お願い……もう許すわ……だから戻って来て」  この言葉は、きっと母が最期に聞きたかったものだ。  俺の胸の奥も、ジンとする。  写真立ての中の母も、実母との再会を微笑んでくれたような気がした。  優しく祖母の胸に収まる写真立てを見て……持って来てよかった。シーグラスが祖母の心を溶かしてくれたと思った。    だが……現実はそこまで甘くなかった。 「ところで夕が来ない理由はどうして? 何か不都合があるの? 私に会いたくないとか……それとも病気とか……あの子は幼い頃から身体が弱かったので、心配だわ」  いよいよだ。  とうとう真実を告げる時が来てしまった。  どんな余波にも負けない。そう心の中では誓っていた。 「さぁ話して頂戴……今度はちゃんと聞くから」 「……母はもう来られないんです。永遠に……」 「何を? 言っている意味が分からないわ。どういうことなの?」  祖母の顔色がガラッと変わってしまった。 「母は亡くなりました……俺が13歳の時でした。乳がんでした」 「はっ? 何を言っているの?この写真の中の夕は笑っているのに……」 「本当なんです。だから俺が代わりに来ました。母の代わりに母の後悔を伝えたくて、この手紙を渡したくて……」  祖母は想像以上に取り乱してしまった。せめてこの母の手紙を読んでくれれば心が落ち着くのではと思い、俺も必死になった。  だが手紙は大きく振り払われ、床に飛んで行ってしまった。 「嘘っ……嘘よ。そんなでたらめを言うなんて……なんてひどい。分かったわ! あなたが夕の息子なんて真っ赤な嘘なのね! この大嘘つき! 帰りなさい! こんな写真で私を騙そうとしても無駄よ!」  手紙を拾おう冷たいタイルの床にしゃがんだ俺の耳元で、突然ガラスの割れる音がした。  ガシャン──  頬を鋭いものが掠め……その後ドクッと熱いものが流れ出るのを感じた。 「何をするんです! 白江さん落ち着いて!」 「離して! だって夕にそっくりな顔をして、酷いことを言うのよ! この男!」  床に投げつけられたのは、俺が作ったフォトフレームだった。  見事に床にあたり、ガラスのフレームが木っ端みじんに砕け散り、その鋭利な破片が俺の頬を切ってしまったようだ。  ポタっと……床に真っ赤な血が落ちる。  涙のように、規則正しくポタポタと……どんどん血が溢れてくる。  俺は頬の痛みよりも、ショックで動けない。  幸い店には俺以外誰も客がいなかったので、騒ぎにはならなかったが、白江さんは動転して、二階に駆け上がって行ってしまった。 「君! しっかりしろ! 大丈夫か」  蹲ったまま動けない俺に、紳士的な男性が慌てた様子でハンカチを差し出してくれた。

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