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正念場 1

「まぁ、また来たのね。一体……何回目かしら。本当にしつこい子ね。相変わらず一人で来るなんて……強情だこと」 「でも白江さん……彼には一人で来ないとならない事情があるんだと、僕は思いますよ」    てっきり話しかけて来たのは春馬さんだと思ったのに、振り返ると彼のお父さんの雪也さんが立っていたので、驚いてしまった。 「い、嫌だわ。あなたたち親子で声がそっくりね。性格は全く違うのに」  雪也さんはお迎いの洋館の当主。私の幼馴染の柊一さんの十歳下の弟さんで、小さい頃は心臓が悪く、いつも洋館の二階の窓から静かに庭を眺めていた姿を今でも思い出すわ。 「そうかな?」 「えぇ、そうよ。あなたの息子の春馬さんを見ていると、柊一さんのお相手だった海里さんを思い出すわ」 「海里先生のことを? それは嬉しいな」  海里さんと柊一さんの仲睦まじい姿が、色鮮やかに思い出される。 「一生忘れないわ。あんなドラマチックな恋……」 「白江さんの事情は、春馬からだいたい聞きました。一度だけでも会ってみたらどうですか。僕からも頼みます。ここに何度も足を運んでいる青年は、僕が昔……よく遊んであげたあの夕さんの息子さんですよね。本当に夕さんに生き写しのように似ているから、一目見れば分かりますよ」 「雪也さんまでそう言うのなら……どうやら本当に夕の息子なのね」 「彼は謙虚で真摯な好青年だそうですよ。いつも息子が教えてくれます」  全く……私が尊敬していた幼馴染の柊一さんの弟の雪也さんに頼まれるのが弱いということを知って……もう、これはきっと春馬さんの仕業ね。 「しょうがないわね……分かったわ。一度……話を聞いてみるわ。彼の言い分となりを……」 ****    あれから何度ここに来ただろう。週に二回は仕事の合間に足を運んでいたので、気が付けば季節も巡りもう三月下旬となっていた。  いつもオーナーの春馬さんという人が丁寧に応対してくれるので、足を運ぶのは嫌ではなかった。ここには微かに母の面影を感じることが出来る、俺の母が産まれ育った大切な場所だ。  でも父と駆け落ちした後は、二度と足を踏み入れられなかった……悲しい場所だ。  中庭には小さな噴水があり時間になると清らかな水が噴き出していた。その噴水を囲むように植えられていたのは、染井吉野の木だったのか。  咲き始めた桜が、また美しい。  桜の季節になってようやく……本当に朧げな記憶だが、俺は父は亡くなった後、母とこの洋館の前まで一度来たことがあるのを思い出した。丁度今、カフェの入り口になっている門扉から、この中庭を母と手を繋いで見上げていた。 「ママ、すごく大きくてきれいなお家だね」 「……そうね」 「あっ……噴水に向かって、桜の花びらがどんどん散っているよ」 「……そうね。さぁもう行きましょう」 「えっ中に入らないの? 何か用事があったんじゃないの? このお家に……」 「ううん……ないの。ないから入れないの」  あの時は、変なことを言うなと思った。  わざわざ用事があるから電車やバスを乗り継いで遥々やって来たのに、用事がないから入れないなんて。  あの時無理にでも母の手を引っ張って中に入っていたら、押すのを躊躇っていた呼び鈴を俺が押してあげたら、何か変わっていただろうか。  俺はあんな目に遭わなかったのでは。  あっ……また考えがマイナスになってしまう。  どんなにあがいても、過去には戻れないのに……  それに今の俺がいるのは、全部過去のお陰だ。嫌なことも良いことも……全部俺が生きた証だ。  だから恥じるな。恥じるのが一番駄目なことだ。  しつこく通うようになったお陰で、カフェのオーナーの春馬さんとは仲良くなった。  彼はもっと年上かと思っていたのに、俺と一歳しか違わないなんて驚いた。  黒いギャルソンの制服をピシッと着こなし、機敏に動き回る姿を眺めながら、淹れてもらったカフェラテを飲むの時間は優雅なものだった。  精悍で優しい彼はいつもカフェラテに、ラテアートを施してくれた。  「がんばれ」「また来いよ」「あきらめるな」  いろんな励ましのメッセージを贈ってくれるのも嬉しかった。きっとそんな励ましのお陰だろう。俺がめげることなく足を運べるのは……丈に話したら妬かれたので、今度は丈も一緒に来よう。  今日も「ファイト!」と描かれたカフェラテを飲み終え席を立とうとしたら、春馬さんに制止された。 「洋くん、待って! とうとう会ってくれるってさ、君に!」 「えっ……本当ですか」  とうとう夢が叶うのか。緊張してゴクリと唾を飲み込んだ。  やがて階段へつながる扉が静かに開かれて、品の良い老婦人が現れた。  俺を見る眼は……まだ……冷ややかで険しかった。  だが、シルバーの見事な白髪に上品な顔立ちの奥に、母の顔を垣間見たような気がする。  母も歳を取るとこんな感じになったのか。  今から俺が対面するのは、俺の母をこの世に産んでくれた人。  この人がいなければ、俺はこの世に存在しなかった。  そのことを胸に誓い、臨もう。    

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