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追憶の由比ヶ浜 8

 翠さんが着ていたシャツを、はらりと脱ぎ捨てた。  綺麗な白肌が、白で埋め尽くされた診療所に溶け込んでいく。  清らかな翠さんは、楚々とした清流のような人だ。 「洋くん、突然ごめん。ここを見てくれないか……しっかりと」  翠さんは自分の左胸、心臓の真下を指さす。  うっ、やはり……そこなのか。 「醜い痕だよ……これは、まるで……ひとりよがりの僕の心の塊だ」  ひとりよがり……?  それは自分が良いと思うことを他人を考慮せずに押し通そうとすることだが、全く違うと思う。翠さんがそんな風に自分を卑下するように言うのが許せなかった。  翠さんはひとりよがりなんかではない! 誰よりも周りのことに気を配り、優しい声をかけてくれる人だ!  頑張りやで、清らかな心の持ち主で、小さな幸せを大切にする人だ!   「そんな……っ、それは翠さんのせいではないはずです。どうか……話して下さい」 「……これはね、あいつが僕に植え付けたものなんだよ」    何度も何度も、おそらく治癒しかけては上書きされた煙草の火傷痕は、ケロイドのようになっていた。複数の丸い火傷痕は一目で根性焼きと分かる、とても惨いものだった。  そこに……痛々しい古い傷痕があるのは知っていた。  こうやって改めて明るい場所で露わに見せられると、本当に痛々しい。  翠さんの痛みが、俺に突き刺さるようだ。 「俺は憎いです、大切な翠さんの身体に、こんな酷い痕をつけた奴が」 「僕はね……当時は奢っていたんだよ。この傷と引き換えに、流を守っていると勘違いしていたんだ。だから僕はひとりよがりだ」  翠さんが肩を震わす。 「だが……洋くん……君が受けた傷はもっと痛かっただろう。屈辱的だったろう。僕には痛い程分かるよ」  翠さんが俺に、優しく触れてくれる。俺の傷は心の傷だった。外傷は数日で消えたが、心の傷は厄介だった。 「翠さん、目に見える傷は……消えないで留まり続ける傷痕はもっと辛いです。翠さんがそこを見る度にどんなに辛かったか」  先に泣いたのは俺の方だった。  翠さんの消せない傷痕の辛さ、それを想うと涙が溢れて止まらない。 「ううっ……うう……」 「洋くん、おいで。 僕のために泣いてくれるのかい?」 「翠さん……っ」  翠さんが俺を抱きしめてくれる。  慈悲深い心が届くと、涙が止まらない。  俺が泣いている場合ではないのに。 「洋くん……僕はね、この傷跡を本当は海里先生に治してもらうつもりだったんだよ」 「そうだったのですか」 「うん、僕が前に進むためには、この傷跡を消したかったんだ」   翠さんの瞳が潤む。 「実は……当時、相談していたんだ。ここに通いながら……ずっと」 「そうだったのですね」 「この傷を見る度に、後ろめたい気持ちになったり、人と接するのが怖くなったり、何事にも消極的になってしまっていてね……ある日、海里先生に言われたよ『前向きに強く生きていくためにも、傷痕修正は大きな一歩になる。完全に元通りの皮膚に戻すのは難しくても、根性焼きとは気付かれない違う形に変えることができる。覚悟が出来たのなら、ここにおいで』……そう言って下さったんだ」  翠さんの瞳に、涙が再び溢れてきた。 「僕の覚悟はね、この傷を消して弟との一線を越える……そんな覚悟だった。だからここを再び訪れるにに時間がかかってしまったんだ。やっと覚悟を決めて訪ねた時には先生はご病気で……もう、うっ……うう」  翠さんが薄い肩を震わせて、むせび泣いている。 「あぁ……海里先生……海里先生だから話せたのに……」 「翠さん、でも……結局傷痕はそのままで、流さんと結ばれたのですね」 「それはね、洋くんの力だ、君が月影寺に来てくれて、月が満ちるように……僕達の心も満ちた。流はこの傷すらも愛してくれた。僕もそれでいいと思えるようになっていたのに……あの監禁事件のせいで振り出しだ!」  そうか……引き金だ。この傷を見る度に、克哉にされたこと惨い事を思い出してしまっているのだ! 「翠さん……翠さん、どうか俺には話して下さい。何をどこまでされたのです。翠さんの尊厳は……守られたのですか」 「洋くん、ごめん……洋くん……僕は、こんなに弱い……」  翠さんが、白い床に泣き崩れてしまった。 「怖かったんだ。異物が……流じゃない指が僕の身体の内部を蠢いた時のあの感触が忘れられない。アイツ……この傷跡を愉快そうに舐めたり吸ったりしてきた……気色悪いざらついた舌先の感触が身体を這い回るんだ。あぁ耐えられない、この傷をかきむしりたくなるほど、気色悪いんだ!」  翠さんが、ついに吐いた。  ずっとずっと溜めていた苦い言葉を吐いた。 「翠さん……全部吐いて下さい」 「ううっ……消したい、もう消えてくれ! もう僕の身体から消えてくれ!」  翠さんの悩みが、痛い程分かる。  俺だって義父に犯された時、体中につけられた噛み跡や接吻痕に吐き気が込み上げた。  身体から消えるまでは、見る度に心を抉られるような心地で死にそうだった。  ようやく身体から消えたとき、どんなに安堵したか。    しかし翠さんは……いつまでも消えない傷を抱え、何年も生きて来た。  そして、再びその傷を抉られてしまった。 「もう、消しましょう! きっといい方法があるはずです」 「洋くん……助けて欲しい」  

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