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追憶の由比ヶ浜 19 

 ドスンッ――  隣の部屋で、鈍く重たい音が響いた。  ウトウトとしていたオレは、その音に驚き飛び起きた。 「父さん?」  何かとても良くない予感で、心臓がバクバクした。  急いで扉を開けると同時に、ドスドスと大きな足音がして、オレにドシンっとぶつかった。 「痛っ」 「悪い、薙」 「あ、流さん!  流さんにも聞こえたのだ、今の音! 「す……兄さんの部屋からだな」 「そうなんだ!」  慌てて父さんの部屋の戸を開けると、床に父さんが倒れていた。    顔色が悪い! 意識はあるのか。 「父さん! 父さん!」 「翠! 翠! どうした?」  流さんも、もう必死の形相で、なりふり構っていられないようだ。父さんは辛うじて意識を保っていた。 「…うっ……りゅ、う?」 「翠、気づいたか、一体どうした?」 父さんは気まずそうに、一度開いた目をギュッと閉じ、唇も貝のように固く結んでしまった。 「翠、頼む」 「父さん、お願い!」  流さんが父さんの唇を、労るように優しく指で撫でる。オレも父さんの冷え切った手を握りしめた。 「翠、もう我慢するな! 溜め込むな、頼むからちゃんと話してくれよ」 「ご……めん、また流を心配させた」 「俺のことはいい! 翠、辛いなら、吐き出せ! 今、何に怯えている?」  流さんが父さんの頬を大きな手で包んで、必死に言葉を促している。  この二人はすごいな。  オレはそんな二人の様子に、大変な事態なのに、どこか安堵していた。  父さんはもう、ひとりぼっちではない。こんなにも頼り甲斐のある流さんが全身全霊をかけて、心配してくれている。 「……写真が……」 「え?」  父さんの手にはよく見ると、古びた写真が握りしめられていた。何度も取り出しては握りしめていたのか、角がぼろぼろだ。 「これは……」    そっと取り上げると、オレが小さい時の写真だった。 3歳、いや4歳位か? あどけない笑顔を弾けさせている。  ありったけの信頼を、父さんに向けていた。   「写真の……薙の顔がボヤけて見えなくなって……怖かった。流、どうしよう……また離婚した頃に戻ってしまったら……怖い、怖いんだ。もういやだ……あれは寂しい……」   父さんがブルブルと恐怖に怯え、震えている。  そうか、やはり父さんは目が悪かったんだ。  離婚した頃? では……あの頃からなのか。  オレはずっと傍にいたのに、気付かなかった! 「翠、しっかりしろ。今はどうだ……見えるか」 「……確かめるのが、こわい」  駄目だ。父さんがどんどん後ろ向きになっていく。 「流さん、オレも話しかけても?」 「あぁ、もちろんだ。翠、薙が傍にいるよ。写真なんかじゃない! 生身の薙だ」 「な……薙なの?」  父さんの手を両手で握りしめた。 「父さん、目を開けてくれよ。そんな古びた写真じゃなくて、今、目の前にいるオレを、成長してオレを、今の父さんの目でみてくれ!」  心を込めて、訴えた。 「今の……薙?」 「そうだよ。父さん、さぁオレを見て!」  父さんの瞼が、微かに動く。 「父さんがいないとイヤだ! 父さんがオレを見てくれないとイヤだ!」   気がつくとまるで幼子のように駄々をこねていた。恥ずかしさよりも、父さんに見て欲しくて、もう必死だ。 「薙! あ……見える。ちゃんとお前の顔が……」  父さんの双眸から、澄んだ雫が流れ落ちた。 「父さん、大丈夫だ。ちゃんと見えるだろう?」 「あぁ、見える。薙がいる、流がいる」  オレと流さんで、まだ震える父さんを大きく包んでやった。  オレも優しい温もりを感じた。  小さい頃、父さんに触れてもらうのが大好きだったことを思い出した。  

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