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追憶の由比ヶ浜 20

「翠、とにかく布団に横になれ」 「流、本当にごめんな」 「何度も言うが、俺に謝るな」 「でも、ごめん」 「また……はぁ……もう目は大丈夫か。他に症状は?」  翠の瞳は、もうすっきりと澄んでいた。  落ち着きを取り戻し、もう不穏なさざ波は広がっていなかった。 「大丈夫だよ。さっきは急にめまいがして……何だか大騒ぎになってしまったな」 「めまい? 心配だな。やはり丈に一応診察してもらおう」 「丈に? いいよ。もう眠っているかもしれないし、悪いよ」  他人には一生懸命のくせに、自分には厳しいのが翠だ。  分かっているから、俺がそういう凝り固まった考えをもみほぐしてやる。 「薙、悪いが、離れに電話して丈を呼んでくれないか」 「了解! 父さん待っていて! オレ、直接行って頼んで来るよ」 「そんな……」 「いいから、父さんが心配なんだ!」      薙も自分が父親のために出来ることがあるのが嬉しいようで、一目散に飛び出して行った。   「驚いたな。薙が僕のためにあんなに急いで……」  翠は面映ゆい表情を浮かべていた。よかった。少し元気になったようだ。 「あ……そうだ。流、いいかい? 薙の前では僕のことは『兄さん』と呼ばないと駄目だよ」  くそっ。この後に及んで、そこか。 「なぁ翠……俺たちもういいんじゃないか」 「え?」 「俺たち、もういい年齢だよな? 翠はもう39歳だろう?」 「うん……流も37歳だなんて驚くよ」 「あぁ、俺もいい大人だよ。いつまでも翠に甘ったれていた小さな弟ではない。だからもう翠はさ、兄として俺を守ろうと頑張らなくていい」 「どういう意味だ?」  翠が訝しげな目で、見つめてくる。 「俺が『兄さん』と呼ぶ度に、翠は長兄としてしっかりしようと意気込んでしまうだろう」  図星だったのか、翠は黙ってしまった。 「だが……」 「俺が兄さんを翠と呼んでも、身内の間ならいいだろう?」 「でも……薙にとってそれはまだ」  馬鹿な翠。  俺は翠の困惑した唇を、優しく潤してやった。  こんな優しいキスをするのも翠だけだ。 「とっくに知っているだろう? 俺たちの関係……そしてあの子なりにお父さんを守って欲しいと願っている」 「流……でも」 「何も父親を取り上げるんじゃない。翠はいろんな顔を持ちすぎている。だから一つくらい下ろしてくれよ。皆、それを願っている」  チュ、チュと唇を啄み……心を解してやる。 「いいのか、本当に……」 「あぁ、翠は甘えろ。もっと皆に甘えろ」  綺麗なカタチの頭をかき抱くと、コクンと頷いた翠の額が肩にぶつかった。 「う……っ、ありがとう……流……」 「翠……肩の荷を下ろせよ」    ****  離れの玄関をけたたましく叩く音。   「丈さん! 洋さん! 起きていますか」  母屋から戻って寝酒でも飲もうと思ったが、丈が今日はやめておくと言って正解だ。何かあったのだ、翠さんに! 「どうした? そんなに血相を変えて」 「父さんが倒れたんだ!」 「えっ、翠兄さんが?」 「分かった、今すぐ行く」  玄関先で丈が薙くんの応対をしている間に、俺は急いで聴診器など急患対応セットを用意した。  「丈、これを持っていって」 「あぁ、洋も来てくれ」 「意識は?」 「意識はあるけれども、分からない。父さんは元気なふりをしているのかもと、不安で……」  薙くんは青ざめていた。 「大丈夫だ。呼びに来てくれてありがとう」 「丈さん、父さんのこと……よろしくお願いします」  この子は、こんなに素直にお礼を言える子だったろうか。  それだけ翠さんへの蟠りが解けたのだろう。  きっと翠さんにとって、何よりの特効薬になると予感した。  

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