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追憶の由比ヶ浜 35

「懐かしいわ。ここに来るのは……何年ぶりかしら」  由比ヶ浜の別荘を見上げ、おばあ様がしみじみと呟いた。 「洋……あのね、ここを海里先生に診療所として貸したのには、理由があるのよ」 「教えて下さい。その経緯を……」 「夕が駆け落ちしてしまって、私は何もかもやる気を失って呆然と過ごしていたの。あまりにショックで家に閉じこもり、主人も怒って……夫婦間もギクシャクしてしまったわ。だからここを封印したの」 「どうして? 「ここには夕の思い出が多すぎて辛かったのよ。朝と夕という双子の命を授かったのも、幼い夕と夏休みを過ごしたのも……皆で遊びに来たのも……全部ここだったわ」  なんと……白江さんが赤ちゃんの命を授かった場所なのか。  では、ここが俺のルーツだ。 「そんなある日……50歳を過ぎた海里先生が、大学病院を辞めて開業する土地を考えていると聞いた時、ここを使って欲しいと私から提案したのよ。全部改装して……夕を思い出せないようにしてと頼んだの」  なるほど……では、もうここには母さんの思い出は残っていないのか。  少しだけ、がっかりした。 「洋……私も実際に訪れたことはないのよ。とにかく中に入ってみましょう」 「はい」  先日翠さんと来たばかりなので、そんなに間は空いていない。あの日は1階の診療所を見るので、お互いに精一杯だった。 「まぁ、海里先生が、まだそこに座っているみたい」  おばあさまは診療所の白い椅子を見て、涙をうっすら浮かべていた。 「あの……海里先生って、どんなお方だったのです? 写真はありますか」 「二階に行けばあるかもしれないわ。彼らは晩年ここで過ごしたので……行ってみましょう」  一階は診療所らしく白を基調とした明るい雰囲気だったが、二階はガラリと趣が違った。 「おばあさま、ここは、まるで重厚な英国のマナーハウスみたいですね」 「まぁ、こんな風に改装していたのね。英国風なのは瑠衣とアーサーの影響かしら?」 「あの、瑠衣とアーサーとは?」 「海里さんの弟とそのお相手の英国人よ。この話はまた今度するわね」  二人の紳士が、確かにここで暮らしていたのだ。 「あ、ここに写真立てがあるわ。洋、見て。これが若かりし頃の海里先生と柊一さんよ」 背が高く彫りの深い麗しい瞳の紳士と、黒髪で華奢な体型の可愛らしい印象の青年が仲睦まじく寄り添っている。  もしかして結婚式だろうか。二人は共にタキシード姿で、胸元に見事な白薔薇つけて微笑んでいた。  穏やかな幸せを感じた。   「いい写真ですね」 「これは……雪也くんが心臓手術を終えた年の6月だわ。彼の中庭でガーデンパーティーをしたのよ」 「写真からも、二人の愛が滲み出てくるようです」 「ありがとう。私から見ても、男同士とはいえ本当にお似合いの二人だったわ。喧嘩らしい喧嘩もせずに、お互いの足りない部分を補い合い、愛溢れる人生だったの。何も残せない彼らだったけれども、毎日楽しそうだったわ。二人は冬郷家をすべて雪也さんに譲って、潔く由比ヶ浜に隠居したのよ」  きっと、このキングサイズのベッドで年老いても寄り添って眠り、二人掛けのソファで、クラシカルな音楽を聴きながら語らいを……。 背が高く彫りの深い麗しい瞳の紳士と、黒髪で華奢な体型の可愛らしい印象の青年が仲睦まじく寄り添っている。  もしかして結婚式だろうか。二人は共にタキシード姿で、胸元に見事な白薔薇つけて微笑んでいた。  穏やかな幸せを感じた。   彼らが好きだったのは、きっと英国式のアフタヌーンティーだったに違いない。  向かい合うように配置された書斎では、時々視線を絡ませ微笑み……朝から晩まで、穏やかに過ごしたのだろう。 目を閉じれば浮かんでくる。  彼らの愛の旋律が――  俺も……いつか彼らが過ごしたような日常を手に入れたいという希望が、自然と生まれていた。  丈に、ここを早く見せたい! 「洋、海里先生の住まいのまま引き渡してごめんなさいね。ここは、あなたが好きなように改装していいのよ」 「いえ……このままで、このままがいいです」  

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