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追憶の由比ヶ浜 56
「きっと、間もなく風が吹きますよ。ずっと待っていた人が、ここにやって来るようです」
おれは紅茶をサーブしながら、海里さんの言葉を思い出していた。
「それは桂人さんの予言ですか」
「雪也さん……実はおれ、生前、海里さんと約束をしていました」
「海里先生と……どんな?」
……
「桂人、悪いな。俺の世話までさせて」
「いや……おれがしたいから」
「ふっ、ありがとう」
由比ヶ浜で病に倒れた海里さんは柊一さんとこの屋敷に戻ってきた。
そして臨終の日までベッドから起き上がれなくなっても、柊一さんと語らいながら日溜まりの中で穏やかに過ごしていた。
本当はかなり身体が痛みでキツかったのでは? それともテツさんの薬湯がよく効いていたのか。
とても和やかな時間が流れていた。
二人は旅立ちの日が……別れが近づいているのに、恐れていなかった。
人には寿命があり、それは抗えない運命だと。ただ、また逢えるから大丈夫と、皺の深くなった手をいつも重ねていた。
そんなある日の昼下がり――
「なぁ、桂人は『翠《すい》』という言葉を知っているか」
「すい?」
「お前の故郷『鎮守の森』のような澄んだ緑色だ。そんな色がよく似合う楚々とした青年と由比ヶ浜で会ったんだ」
「珍しいですね。そんな話……」
「……心残りなんだ。いつか……いつかここを訪ねてくるかもしれない。その時は、俺の代わりにテツと桂人が応対してくれ。桂人の背中を滑らかにした、テツの薬草から作ったクリームを処方して欲しいんだ。なっ……頼むよ」
……
あの話は何だったのだろう。
鎮守の森か……懐かしい場所だ。
もう遠い昔のことだ。あれは……
過去を追憶していると、紅茶を飲んでいた春子に声をかけられた。
「えっ……海里先生が、そんなことを?」
「あぁ、予感がするんだ」
「どんな人かしら? 翠色が似合う人かぁ、会ってみたいわね」
雪也くんの隣で、妹の春子が目を輝かせる。
お前の瞳は輝きっぱなしだ。それが嬉しいよ。
目を閉じれば……『鎮守の森』が見える。
おれの愛したあの樹が……
15歳から25歳までの10年間、あの樹だけが俺の味方だった。
だから、おれも翠色の青年に会ってみたいと思っていた。
さぁ来いよ。
ここに風が吹く、爽やかな風が吹く。
忍ぶれど……色は匂へど。
姿を現せ!
あとがき(不要な方はスルー)
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桂人は『鎮守の森』の主人公です。https://estar.jp/novels/25788972
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