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追憶の由比ヶ浜 58

「絶対だぞ! 翠、約束だぞ!」 「分かった……ちょっと流、落ち着いて……静かに」  流が僕の上で大型犬のように甘えるので、擽ったくなってしまった。  そうか……そんなに喜んでくれるなら、思い切って切り出して良かった。  丈が戻ってきた年に、彼らの新婚旅行に何故か付いて行くことになり、宮崎旅行をした。  あの旅行が、僕たちの始まりだ。  丈が持っていた月の欠片が僕の帯留めにはまった瞬間。  月か重なった途端、僕らの秘めたる恋の……歯止めが利かなくなったのだ。  そこから僕らは何度も何度も皆に隠れて、抱き合っている。  去年は葉山の海に、やはり丈と洋くんと一緒に行った。   では今年は? と考えた時、僕の中で浮かんだことだ。  今年は流と二人きりで露天風呂つきの温泉に泊まって、ゆっくりしたいな。  最近は、ますます住職としての責務が増し忙しい。  流は僕をいつも熱く求めるが、僕にだって流を求める性欲はある。  声を殺し抱かれるだけでなく、煩悩のままに乱れ咲いてみたいとも。  こんな話をしたら、流は驚くだろうな。 「翠、今年のお盆はその後の旅行を楽しみに乗り切るよ。本当に俺たちだけで行くんだよな! 二人きりで」  何度も念を押される。 「そのつもりだよ。だからその時に……してあげる」  普段なら数珠を握る手で……流の股間にそっと触れると、あまりに熱くて驚いた。 「流……駄目だ。早くおさめて」 「おいおい無下なことを……翠の手で導けよ! 仏の教えのように、俺の熱の出口を指南してくれよ」 「だ……駄目だよ。仏様にそんなあからさまに煩悩をぶつけては」 「……待ち遠しい」  最高潮に盛り上がっているところで、トントンとノック音。 「張矢さーん、そろそろ胃カメラのお時間です。お迎えに来ました♡」 「あ、はい。今、支度して出ます」  僕は慌てて流を押し退け、衣類を整えた。   「チッ!」  流が僕の背後で、舌打ちしながら手を左右に揺らしたので、不思議に思った。 「流、さっきからその仕草、何? 虫でもいるの?」 「ハートを蹴散らしていたんだ」 「|♡《ハート》?」   「くそ可愛いな。翠が言うと」 「あはっ、酷い言葉遣いだね」  肩を揺らして笑うと、肩を掴まれてキスをされた。  流はそのままガラリと部屋の扉を開き、まるで聞き耳を立てていたかのような看護師さんをジロッと見つめ、廊下をスタスタ歩いて行ってしまった。  はぁ……もう風来坊みたいだ。 「すみません。お待たせしました」 「弟さんって、随分威勢がいいんですね」 「す、すみません。いい歳して……僕が病院嫌いだから励ましてくれるんです」 「いえいえ、完璧過ぎるより少し抜け目があった方が可愛いです♡♡」  あれ? ハート?     目を擦ってしまった。  成程、これか。流が蹴散らしていたのは。 「翠さんは、胃カメラは初めてですか」 「ええ」(翠さん?って……いきなり? 失礼だが少々馴れ馴れしいような) 「大丈夫ですか。背中を擦ってあげましょうか」  いやいや、そんなことしたら流が飛び込んで来るのに……やれやれと肩を竦めた。 「大丈夫ですよ。僕は坊主なので『無の境地』で臨むのみです」  そう伝えると、『坊主』に反応した看護師さんが目を丸くして固まっていた。 『無の境地』  それは僕が寺の住職として日々鍛錬していることだ。  目の前に大きな困難が立ちはだかってもパニックにならずに、平常心を保てるようにならないといけないのだ。  それを今から実践するまでだ。 「翠……いえ、張矢さんは、ご住職さまなんですね、はぁ……格好いいです‼」 「然り」  看護師さんへの対応も『無の境地』で臨むから、流、安心していいよ。  僕は……お前だけ、流だけを思っているよ。   

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