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追憶の由比ヶ浜 60

「はい、張矢さんよく頑張りましたね。特に悪い所も見当たりませんよ」 「良かったです」  胃カメラの検査は、実にあっけなく終わった。正直もっと大変かと思ったがカメラは本当に小さかったし、『無の境地』になるのは、得意だった。   「張矢さん~、とっても上手でしたよ」 「そうでしょうか」 「えぇ、嘔吐きもせずにスルスルと飲む込めるなんて、素晴らしいです」  手放して褒められ、無性に嬉しくなってしまった。  看護師さんに褒められたのが嬉しいのではなくて、流に褒められる予感がして嬉しいのだ。  はぁ……僕も大概だな。 「兄さん、終わりましたか」 「あ、丈! うん、もう全ての検査は終わったよ」 「ではこれで退院していいですよ」 「そうなのか……」 「もしかして、名残惜しいのですか」  丈がニヤリと意地の悪い笑みを浮かべていた。 「名残惜しくなんか……」  ないとは……言い切れなかった。  流と二人きりの甘い夜を過ごし、流に甘えてばかりの検査入院だった。  こんな気持ちは、一歩でも月影寺に足を踏み入れれば、絶対に抱けない気持ちだ。 「そんな顔をするなんて。もうすぐ兄さんたちの離れが完成するじゃないですか」 「そうだね。桜の咲く頃には」 「それは、もう間もなくですよ」  丈が指さす方向を見ると、病院の中庭に植えられた桜の樹に小さな蕾が見えた。 「春が来るんだね。また……」 「えぇ、冬は終わります。必ず……」 「うん、洋くんの長い冬もついに終わったようだね」 「あ……はい。最近の洋はよく笑い、明るくなりました。あれが本来の彼なのかも」 「うん……息をしているね。ちゃんと」 「月影寺のお陰です。兄さんが守ってくれる月影寺のお陰なんです。偉大な力です」  白衣姿の丈が、スッと頭を下げる。  こんなことが出来る弟ではなかったので……面食らう。 「丈……お前……変わったね」 「兄さん……人は変われるものですね。愛しい人のために」 「そうだね。そう思うよ」  澄ました顔で個室に戻ると、流が僕の荷物を整えていた。  そうか……もう帰り支度をしているんだな。  帰ることが現実となり、少し寂しくなってしまった。 「翠! 戻ったのか。どうだった? 胃カメラ怖くなかったか」 「うん、大丈夫だった。流の言う通り『無の境地』で臨んだからね」 「そうか、偉かったな、翠」  流がすっぽりと僕を包み込んでくれる。   「流……」 「どうした?」 「もっと……言ってくれないか」  もう帰らないと……そう思うと、いつになく欲が出てしまった。  こんな欲張りはいけないと分かっていても、止まらないんだ。 「翠、なんだか今日はえらく可愛いな。あぁ、翠は頑張った。いつも頑張っている。頑張れ! 大丈夫だ。俺がついている」  作務衣に隠れているが……筋骨隆々とした広い胸に押しつけられるように抱かれたので、僕はそっと目を閉じた。  流が好きだ。  共に甘い時間を過ごせば、一時も離れたくないほど……大好きで溜らない気持ちで一杯になるんだ。 「流……もう一度だけ言ってくれないか」 「フッ、あぁ何度でも言うよ。翠はいつも頑張っている。俺はいつだって翠を見ている。応援している……そして、深く……強く……愛しているよ」  最後はキス、キス、キスの嵐。  流の力強いキスにもっていかれる。  さぁ、もう戻ろう。  僕らの月影寺へ――

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