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それぞれの想い 19

 するすると木登りし、翠の部屋の高さで木の幹に腰掛けた。 (翠……) 心の中で念仏を唱えるように、呼びかけてみた。  隣は薙の部屋だ、早朝だし……大きな声は出せないな。  しかし何故だか翠に気付いてもらえるような気がした。 (流……)  お? ほらな、翠の返事が聞こえる。 「流、危ないよ」  ん? 声は何故か下から聞こえるぞ?  慌てて地上を見下ろすと、袈裟を着込んだ翠が立っていた。  涼しげな澄ました表情を浮かべている。 「なんで!?」 「あ、危ないよ!」  おっと! 驚きのあまりバランスを崩すところだったぜ。  ザザッと滑るように木から下り、翠の前に立ち深呼吸する。 「来いよ」 「えっ?」  翠の細い手首を掴んで引っ張った。 「りゅ、流? どこへ」 もう完成した茶室を通り越し、俺の工房《アトリエ》に、翠を連れ込んだ。 こちらももう完成したので、先日から入り浸って作業をしていた。 「翠、何故、「こんなに早起きしたんだ?」 「そ、それは……流こそ、どうして早朝から木登りなんてして。また落ちたらどうするんだ?」  翠が心配そうに俺を見つめる。  そう言えば……幼い頃、木から落っこちた俺を庇い、翠が骨折してしまったことがあったよな。 「悪かった。あの時の骨折……雨の日に疼いたりしないか」 「ふっ……そんな昔のことをまだ気にしていたのか。もう疼かないよ」 「ふぅん、じゃあこっちはどうだ?」 「えっ?」  翠の下半身に触れそうになった手を、慌てて彷徨わせた。  袈裟を着ている翠に、手は出さない。  朝の読経前の清らかな身体なのだ。 「流……」  翠もそれが分かっているから、それ以上は何も聞かない。 「翠、夏の旅行が待ち遠しいぜ。寝ても覚めても……抱くからな」  こんな風に翠を言葉で辱めてしまうなんて、俺も意地悪だな。 「流……約束は果たすよ。ところで……これって桜貝なのか。綺麗だな」  瓶に入った桜貝を翠が見つめている。 「あぁ、そうだ。洋から預かって、おばあさまにアクセサリーを作って欲しいそうだよ。それから皆の分も頼まれた」 「へぇ、カタチが揃っているね。あ、そうか……由比ヶ浜で取って来たんだね」 「そうらしい」  由比ヶ浜の穏やかな波に抱かれ……砂浜に打ち上げられた桜貝は、花びらと見まごう美しさだった。まるで色づいた翠の唇や淡い胸の尖りのようだ。 「りゅ、流……あんまり見るな、ただでさえ眠れなかったのに、心臓が高鳴ってしまうよ」  手の届かない兄だった翠が、俺を想い眠れないと、俺を想い心臓が高鳴ると言ってくれる。それだけで最高の朝ではないか。  時間はたっぷりある。  望みすぎるな。  夏を待て。  **** 「か……海里……! まさか……」  驚いた声を浴び、振り返った。 「あ……違うのか。すまない」  明らかな落胆の表情を浮かべていたのは、白髪交じりの黒髪の老紳士だった。かなりの高齢だと思うが背筋をピンと伸ばし、ノーブルな気品に満ちていた。  一体……誰だろう? 「もしかして……あなたは海里先生の知り合いですか」 「そういう君は誰? その白衣も聴診器も……海里の残したものだよ」 「あ……私は」  そこに洋が走ってやって来る。 「丈、どうしたんだ?」 「えっ ゆ……夕さん……!?」   黒い瞳の彼は、今度は驚愕の表情を浮かべた。  二軒の双子の家を跨ぐように、大きな虹がかかったように見えた。  会いたい人がいる者同士が……出逢ったのだ。  時の悪戯……なのか。  いや、時の魔法がかかる。  今――ここに!

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