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それぞれの想い 23

「ではまた」 「あ、あの……」  帰ろうとしたら、瑠衣さんに呼び止められた。 「丈さん」  俺ではなく、丈を……? 「何でしょうか」 「すまないが、す……少しだけ背中を見せてくれないか」 「……いいですよ。あの……私の背中に海里先生を想ってもいいですよ……むしろ光栄です。海里先生は、私の尊敬する医師です」    丈がこんに寛大な態度を取れるなんて、意外だった。  人と接するのが苦手で、殻に閉じこもっていた丈はもういない。今は人を癒やす医師の丈だ。  遠い昔を思い出せ――  丈はいつだって人々に寄り添える存在だったじゃないか。医官のジョウは部下に慕われ、丈の中将も人々に愛される気立ての良い貴公子だった。 スッと丈が背筋を伸ばすと、俺にも見えた。少し古めかしいシルエットの白衣の背中に、海里先生のお姿が浮かび上がった。 『あとは任せたよ』 そんな声ならぬ声が、聞こえるようだった。 「海里……海里ぃ……うっ……」  瑠衣さんが嗚咽する。溜らない顔で表情を歪めていく。 「に……兄さん……僕の兄さんっ」  丈の背中は、何故だか……天上と繋がっているように感じた。 『瑠衣、泣くなよ。お前に泣かれるのは弱い。ごめんな、俺たちだけ先に逝って……安心しろ、柊一も元気で毎日俺と笑っている――』  聞こえるはずのない……亡き人の声が聞える。 「臨終に立ち会えなかった……海里、海里……兄さんっ ごめんなさい。いつか逢う日まで、元気で……思い出がありすぎて……辛いよ」  瑠衣さんは丈の背中にそっと頬をあてて泣いた。  丈は背中を過去に預ける。  人は誰でも何かしらの後悔を抱いて生き続ける生き物だ。  あの時こうすればよかった。もっと違う方法があったんじゃないか。  それは俺にも言えること。  その都度その都度、ベストは尽くしても叶わなかった夢もある。  今のあるがままの姿を受け入れて、そうやって明日を迎えるのが、生きるということ。 「瑠衣さん、どうぞ私の背中でよければ……どうぞ泣いてください。後悔を吐き出して前へ……私が病院に息を吹きこむのを見て下さい」  丈の言葉は、道標だ。 「ありがとうございます。丈さん……海里に土産話が出来ます。生きる楽しみが出来ました。兄に……お別れの言葉をやっと言えました」 「良かったです。私と丈を受け入れてくださったお礼が出来ました」  **** 「丈、この家具、クラシカルで素敵だな」 「あぁ、時代を経ても良質なものは良い」  瑠衣さんの家を出て、もう一度海里先生の診療所だった洋館に入った。  家具の座り心地や具合を確認したが、どれもモノがいいので、痛みも最小限で済んでいる。 「このまま使わせてもらおう。検査器具などをレンタルすれば、そんなに負担なく早い段階で……開業出来そうだ」 「いいのか、本当に」 「あぁ気に入ったよ。洋こそいいか。ここを使わせてもらっても?」 丈とこんな会話をする日がくるなんて信じられないよ。 「もちろんだよ」 「あぁ、これで洋がいつ倒れても私が診てやれるな」 「まだあの時のことを……根に持っているのか」 「あぁ」 「ふっ、俺も安心だ。丈に悪い虫がつかないように見張っていられる」 「へぇ、珍しいな。洋が嫉妬を?」  う……墓穴を掘った。翠さんの検査入院で、白衣の丈が病院でどんなにモテているのか……嫌というほど分かったんだ。 「ち、違う!」 「ふっ、嬉しいよ。可愛い洋を独り占めできて」 「丈……もう遅刻するぞ」 「あ、そうだな」 「行こう! 病院まで送るよ」 「ありがとう!」  朝日に照らされる中、俺たちは動き出す。  今日も明日も明後日も……ずっと一緒にいるために。

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