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ある晴れた日に 8

「流……こんなにつけて」 「だが最後まではシテないぞ。朝からは、翠の身体の負担になるだろう」 「……ありがとう」  20分足らずの戯れだった。  お互い最後まで高まることなく身体を離したが、満ち足りた豊かな想いを抱いていた。  そのまま衣装部屋に連れて行かれ、着崩れた袈裟を一度脱がされた。  等身大の姿見に映る僕の身体には無数の花弁が踊っていたので、まるで僕の心の高揚を写し取ったようだと、感嘆の溜め息を漏らしてしまった。  流の着付けは、天下一品だ。  シュッと衣擦れの音を立てながら、ビシッと着付けてもらうと、凜々しく、清々しい気持ちになれる。 「ありがとう。行ってくる」 「行っておいで、翠。俺は工房で一仕事してから向かうよ」  僕たちは見つめ合う。  心を通わせる。  僕と流にとって、新しい朝が来た。   遠い昔、湖翠さんがこの世を去るまで密かに探し求めた人は、今、ここにいる。  あなたが心を濡らして過ごした日々は、こうやって報われていくのです。  臨終の際……あなたはあの日流水さんが去って行った庭に手を伸ばしましたね。  その手が掴んだのも、やはり未来への切符だったのでしょう。  未来への希望をお互い抱いて旅立ったから、今生で出逢えたのでしょう。  流と僕の人生は、まだ半ばだ。  まだまだ、これからだ。  流と生きる人生は、僕のすべてになる! **** 繭の中にいるような、安心感に包まれて微睡んでいた。  そこに漂ってくるのは紅茶の香り?  少しスモーキーな香りだ。  瞬きを繰り返し覚醒していくと、すぐに慈愛に満ちた声がした。 「あら、ようちゃん、起きた?」 「おばあさま。俺……また寝てしまって?」 「とても疲れていたのね、さぁお紅茶を一緒に飲みましょう」 「とてもいい香りですね」  祖母は俺の枕元で、優雅に紅茶を飲んでいた。 「これはねアールグレイというお紅茶で、ベルガモットで柑橘系の香りをつけたフレーバーティーの一種なのよ」 「とても好きな香りです」 「どうぞ」  傍に控えていた桂人さんが、俺にも美しい手つきで紅茶を淹れてくれる。 「洋さん、ベルガモットによるアロマセラピーは、意欲や精神の安定に関わるドーパミンとセロトニンの放出を促してくれるので、不安な症状を緩和できるます」  桂人さんという人の知識は深い。専門用語をいとも容易く……  一口飲むと、すぅっと心に染み渡った。  丈とは珈琲を飲むことが多いので、朝から紅茶を飲むのは新鮮だ。これ……丈にも飲ませてやりたいな。 「あの……」 「分かっているわ。お土産に持たしてあげるわね」 「あ、ありがとうございます。どうして分かったのですか」  おばあ様には何も言っていないのに、俺が考えていること『阿吽の呼吸』で拾ってもらえる。 「それはね、ようちゃんのことが大切で、大好きだからよ」 「えっ」  あまりの日常的に降ってくる、大切、大好きという言葉に、また母を思い出してしまった。母も口を開けば、『洋、大好き。洋……あなたが大切なの』と言ってくれた。 「私ね……ようちゃんが本当に大切で、大好きなの。あなたのこと、接すれば接する程、好きになるのよ」  人に嫌われた方が楽だと思って生きてきた俺なのに……  もう……そんな疲れる生き方はしなくていいのか。  そう思うと、もっともっと解放したくなった。  辛かった過去はもう振り返らないが、置いてきぼりにした俺と出逢いたくなった。      

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