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身も心も 40

「帰ろう」  その一言に尽きる。  僕が帰る場所は、月影寺だけだ。  どうしてあの時あんなに呆気なく離れることが出来たのか。あの時の僕は、進むべき道を見失っていたのかもしれない。  しかしあの道がなければ、僕は愛おしい息子、薙に出逢えなかった。 『全ての出来事には、理由がある』    先人たちの言葉に、偽りはない。  結果的に僕は子孫を残すことになった。  月影寺を後世に繋げていく架け橋をかけたのだ。  もちろん、薙が寺を継ぐかどうかは分からない。薙はまだ15歳の子供だから、自分の進むべき道を見つけていない。押しつける気もない。それでも薙という存在は大きい。 「翠、どうした?」 「うん……ちょっとね、あの日を思い出すよ」 「月影寺に戻って来た日のことか」 「もう最後の方は戻りたくて戻りたくて……魂だけでも飛ばしたくなっていた」 「馬鹿だな。そんなに帰ってきたかったのか」  あの日の僕は、視力を失い傷だらけの身体で車に揺られていた。  母が心配そうに見つめる視線を、心で感じながら。  目を閉じると、あの日の母の声が聞こえる。 『さぁ帰りましょう。北鎌倉に』    同時に……あの日の僕の姿も見えてくる。  僕はいい歳して母に心配かけて情けないやら悲しいやらで、助手席でひとり零れそうな涙を堪えた。いよいよ我慢出来なくなり、窓を開けて車中に吹き込んで来る風に身を任せていた。  涙は光となって過ぎ去っていった。  僕を通り過ぎてきた遥か彼方へ──  やがて空気が、突然変わったのを今でも覚えている。  塵が舞う都会の重く息苦しい空気は、いつの間にか新緑の香りを乗せた爽やかなものに変化していた。懐かしい肌馴染みのいい森の匂いを強く感じた。  北鎌倉の山々から一気に吹き下ろす力強い風を全身に浴びて、ようやく気持ちが落ち着いた。  間もなく流に会えると、密かに胸を高鳴らせていた。 「流、窓を開けておくれ」 「あぁ」 「薫風だね」 「翠の帰還を祝福しているようだ」  あの時は匂いだけで見えなかったが、今ははっきり見える。  目にも鮮やかな若葉の一枚一枚が、風に揺れる様子も。   「いつの間にか桜は散り、新緑の季節だね」 「翠の季節さ。今日は翠が月影寺に戻ってきた日と似ているな」 「そうだね。でもね……あの日とは違うよ」 「そうだな」 「僕は流のものになり、流は僕のものになった。それにもうここに傷もないし……それに目もちゃんと見える」  両手を伸ばして降り注ぐ光に触れたくなるような、心の煌めきを感じていた。 「もうすぐ着くぞ」 「うん!」 「ふっ、可愛い返事だな。翠は最近変わったよ」 「そう?」 「気付いていないのか。とても心が寛いでいるようだ。本来の自分を出せているようだ」 「あ……僕、何か変だったか」 「ふっ、はしゃいでいたよ」 「はしゃぐ……? 困ったな……住職には相応しくないよ」  気恥ずかしくて俯いていると、また流に声をかけられた。 「翠、顔をあげろよ」 「何?」 「翠の大切な人達が、あそこに」 「あっ」  山門を降りた国道の道に、薙と洋くんが仲良く立っていた。  手を振っている。  笑っている。  僕の帰りを待っていてくれたのか。 「歓迎してくれているな」 「うん……!」  ようやくここに辿り着いた。  僕の目指した世界に。 「翠さん、お帰りなさい」 「父さん、お帰りさない!」 血を分けた息子と、僕らの長い旅路を見守ってくれた洋くんを両手で抱きしめた。  あぁ、そんな僕を包むのは、翠色の世界だ。  爽やかな風が、僕たちを包みこんでいく。  もうすべて忘れよう、今日からが新しいスタートなんだ。  もう全部……消えたのだから。 「薙……洋くん、ただいま!」  月影寺を守る住職は、この僕だ。  そして僕を補佐し、僕と愛し合ってくれる男が流だ。   二人の男の歩む道は、どこまでも月光に照らされた一本道。  もう僕には流、お前だけだ。  身も心も、流のものだ。  だから流も……僕に全部……ぜんぶ……委ねておくれ。  身も心も愛してるよ。

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