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蛍雪の窓 4
本当はしっかり覚えている。
幼稚園どころではなく、中学生になっても着替えを手伝ってもらっていたのさ。
……
中学生になり、ようやく俺も学ランを手に入れた。
兄さんと同じ中学に行けないのは悔しかったが、兄さんの俺に対する優しさは変わらなかった。
春休みのある日、自室で寝っ転がって漫画を読んでいると、兄さんが大きな白い箱を抱えて入ってきた。
「流、制服が届いたようだよ」
「おぅ!」
「試着しないの?」
「した方がいいのか」
「うん、流の学ラン姿、見てみたいからね」
兄さんのワクワクした甘い笑顔に、ドキッとした。
どうして俺は、兄にトキメクのか。
「分かった。着てみるよ」
ところが、一番上のホックが上手くとまらない。
「あれ? 上手く出来ないな」
「どれ、僕がやってあげるよ」
「……っ」
兄さんの綺麗な顔が近づくと、呼吸が止まりそうになった。
細くて柔らかい髪が至近距離で揺れる様子から目が離せない。
長い睫毛が瞬くのに、見惚れそうにもなった。
やがて細くて長い指が、俺の顎をそっと掠める。
「出来た! うん、やっぱり学ランは第一ボタンとホックを留めた方がカッコイイよ」
兄さんがそう言うのなら、絶対にそうする!
「でも、難しいな」
「僕が慣れるまで、いつもしてあげるよ」
うぉぉ……
この兄は『人たらし』だと、唸りたくなった。
「流、改めて中学入学おめでとう。応援しているよ」
優しい笑みに包まれて、やはり同じ学校に通いたかったと切なくもなった。
……
「流、聞いてる?」
「あぁ」
回想に浸っている間に、翠が手際よく袈裟を着せてくれていた。
「へぇ翠の着付けも様になっているな」
「そうかな? 見様見真似だよ」
「そういえば……」
翠の細い指を掴んで、じっと見つめた。
「な、何?」
朝食の時に負った軽い火傷は、まだ少し赤かった。
「やっぱり赤くなってしまったじゃないか。気をつけろよ」
「あっ……馬鹿」
指を躊躇うことなく、口に含んでチュッと吸い上げ、父の顔をしている翠を、少しだけ俺のものにしたくなった。
ほんの少しだけだから、許せよ。
「りゅ、流っ」
「悪かった」
「いや、いいんだよ。ありがとう」
翠はいつだって俺を、こんな風に淡く許してくれる。
このまま甘えたくなる弱い心は律し、その後はいい子に袈裟を着付けてもらった。
「そう言えば、僕の焼いた卵焼き、ちゃんと食べてもらえたかな」
「喜んださ」
「そうだといいが……ずっとあの子に作ってあげたかったんだ。母親が近くにいない分、僕では頼りないだろうが、親らしい愛情を注いであげたくてね」
「薙には伝わっているよ。それに俺たちも皆、薙が好きだ」
「心強いよ。僕も薙も――」
夕刻、薙が元気よく戻ってきた。
「ただいま!」
翠は待ちきれない様子で、玄関に向かった。
「お帰り、薙!」
「父さん、朝は送ってくれてありがとう」
「お疲れ様、ベストを尽くせたようだね」
「……かったよ」
蚊の鳴くような声で、薙が呟いた。
翠にはちゃんと届いたようで、その途端、破顔していた。
きっと卵焼きのお礼だろう。
俺にとっても、薙は大切な子だ。愛しい翠の血を分けた世界で唯一の甥っ子だ。だから翠と薙の親子関係が、ここまで修復したのが心から嬉しいよ。
****
試験終了のチャイムが鳴り響いた。
オレはずっと握っていた鉛筆を、そっと机に置いた。
ここまでだ。
チャレンジは終わり、あとは結果を待つのみだ。
参ったな。
父さんからのエール、想像以上の効果があったようだ。
ベストを尽くせた。
そう確信していた。
父さんが私服に着替えて受験会場まで送ってくれただけでも密かに感激していたのに……まさか弁当に手作りの卵焼きを入れてくるなんて反則だよ。焦げた卵焼きに、もらい泣きしそうになったじゃないか。
お陰で午後のテストも頑張れたよ。
父さんがこんなにオレを大切に思ってくれていたなんて……
もっともっと父さんに心を開きたいよ。
そんな思いで帰宅すると、父さんがまだ私服のまま出迎えてくれていたので、また驚いた。
父さんが、どんどん歩み寄ってくれる。
ならば、オレも歩み寄ろう。
照れ臭くて言い難かったが、『卵焼き、美味しかったよ』とちゃんと告げることが出来たんだ。
ありがとう……父さん。
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