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蛍雪の窓 5

試験を終えた薙くんが、無事に月影寺に戻ってきた。  出迎えた翠さんは袈裟ではなく、朝の服装のままだった。  俺はそっと物陰から、その様子を見ていた。  親子の時間の邪魔をしてはいけないと思ったから。  だが……ふいに仄かな寂寥を覚え、胸のつかえを吐き出したくなり、呟いてしまった。 「……お父さん」   亡くなった父を、そっと呼んでみた。  だが父さんは霞の向こうにいてよく見えない。  あなたが生きていてくれたら、俺の人生は全く違うものとなっていただろう。だが、そうだったら、今の俺はここにいない。  父さん、俺……今の俺が好きなんだ。だから、今度は彼の名を呼ぼう。 「……丈」 「洋、私を呼んだか」  突然背後から抱きしめられて、驚いた。  少しの消毒液の匂いと丈の匂いが混ざった香りに、安堵する。   「丈、今日は早かったんだな」 「あぁ、こんな日は……早く帰りたくなるものさ」  そのまま身体を反転させられ、チュッと軽いキスを受けた。    俺の心を、ノックしているのだ。   「ふっ、やっぱり丈には何でもお見通しなんだな」 「そうだな、ここに風が吹くんだ」  丈は自分の胸に手をあてて、微笑んだ。 「洋が喜んでいる時は、日だまりのように暖かくなり、寂しがっている時は冷たい風が吹く」 「参ったな。丈が風邪をひいては困る」 「どうした? ちゃんと私に話してみろ」 丈が俺の乾いたくちびるを、そっと指先で撫でてくる。    今度は、誘導しているのだ。 「うん……実は翠さんの父親らしい一面を見ていたら、急に亡くなった父さんが懐かしくなってね。でも顔も記憶も朧気で……俺、実の父の顔をろくに思い出せないなんて最低だな」 「洋、自分をそう責めるな。己のルーツを探りたくなるのは、本能的なことだろう」 「そうだろうか」 「由比ヶ浜の診療所が落ち着いたら、また旅に出よう。京都なんてどうだ?」 「……いいのか」  行き先は京都――  それは父のルーツを探す旅になることを、意味するのか。   「洋が失ったものを、取り戻してやりたい」 「ありがとう! その気持ちだけで今は満ち足りていくよ。その前に、まずは開業準備だな」 「あぁ、頼りにしている」 ……  やがて季節は巡り3月1日。  今日は、薙の高校受験の結果発表の日だ。    俺の母校まで合否を見に行った薙の帰りを、翠と二人で今か今かと待ちわびていた。  薙の奴、今日は一人で行くと頑なだったな。  だからなのか、翠は朝のお勤めに身が入らず、ずっとそわそわしている。  いつもは自分を厳しく律する翠も、息子が絡むとガタガタだ。  まったく、しょうがねーな。 「流、流……なぁ……薙は大丈夫かな」 「そう心配するな。俺には分かる。もう薙は俺たちの子みたいなもんだからな」 「えっ! 俺たちの子? あ……でも、いいね。その響き」  翠は一瞬驚いた後、ふっと肩の力を抜いて目を細めた。   「顔は翠に似ているが、性格は俺に近いだろう。だから薙を我が子のように感じるんだよ」 「嬉しいよ。あの子には、流のように逞しく育って欲しいから」  そんな話をしていると「ただいま! 父さんどこー?」と明るい声が玄関から響いた。  もう、その声が答えだな! 「薙!」 「父さん、受かった! オレ、受かったよ!!」 「薙! おめでとう! 本当に良かったね!」  玄関先でいつになくハイテンションで抱き合う二人を、俺は胸を撫で下ろしながら、眩しく見つめた。  俺は翠の幸せを、いつまでも見守る者でありたい。 『翠を今度こそ幸せにする』  それがこの世に生まれてきた理由……  俺の使命だから。

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