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蛍雪の窓 8

 本堂で読経をしていると、ガラッと扉の開く音がした。  振り返ると、制服姿の薙が入ってきた。 「父さん、ただいま」 「薙、また背が伸びた?」  中学の学ランは身長が伸びたせいで、サイズが小さく窮屈そうだった。 「もうこれ、限界だよ」 「新しい制服が楽しみだね」  ふと思う。  中学の制服を誂えたのは、僕ではない。  まだ彩乃さんと薙が一緒に暮らしている時だった。  小学校の入学式も……卒業式も、中学の入学式も、僕は呼んでもらえなかった。  離婚した彩乃さんはルールを徹底し、月一度の面会以外は僕を避けていた。  僕は当時、視力を失い、体調も悪く、無理強いは出来なかった。    薙……  君の成長の全てを、僕は知らない。  今となっては、大切な時期を共に過ごせなかったことが悔やまれるが、もう過去は過去だ。  過去に囚われすぎてはならない。  今を大切に、今からをもっと大切にしていかないとね。 「それにしても、薙がここに来るのは珍しいね」 「えっと、これ」  躊躇いがちに渡されたのは、卒業式の案内だった。 「あのさ、父さん……来てくれる?」 「もちろんだよ」 「あっ、ありがとう」 「僕だけで……ごめんね」  ご両親揃って見える方が、多いだろう。 「何言って? オレは父さんに来て欲しいんだ」  薙はそそくさと本堂を出て行ってしまった。  ふっ、こういう所は流と似ているな。  ぶっきらぼうで照れ屋なところが。 「卒業式か、一体何を着ていこう?」 「そりゃ、スーツだろう」 「あ……流、いつの間に……」 「どれ? いつだ?」  作務衣姿の流が、背後からヒョイと手元の書類を取り上げた。 「なんだ2週間後か」  庭仕事をしていたのか、少し汗ばんでいる。  流の男らしい匂いを間近に感じ、僕の身体は条件反射のように反応し出す。  過敏になった。 「ち、近いよっ」  僕は慌てて、顔を背けた。 「ん? 照れちゃって、翠は案外さぁ、分かりやすいんだな」 「そ、そんなことはない」 「それよりせっかくの機会だ。スーツを新調しようぜ」 「えっ、いいよ」 「よくない。卒業式と高校の入学式で続けて着るし、翠が薙のセレモニーに出るのは初めてなんだろう? 気張ろうぜ」 「それは、そうだが……」  スーツを着る機会は殆ど無いので、そもそも手持ちが少ない。普段は 圧倒的に袈裟で過ごすことが多いのも理由の一つだ。 「そうだ……あそこがいい。よし、今からなら間に合うな」 「え……」 「行こうぜ!」 「ど、どこへ?」 「銀座さ。大学の先輩がテーラーを開いたんだ」  というわけで、僕は私服に着替えて流の車に乗りこんだ。  薙は、丈と洋くんが面倒を見てくれるそうだ。 「何もそんな遠くまで行かなくても……横浜のデパートでもいいんじゃないか」 「翠の一張羅だ。一流の物を着せたいんだ。それに……」 「何?」 「行けば分かるよ。たまには俺に付き合ってくれよ」 「分かった……流に任せるよ」  全ては流の望むままに。    それが僕の望み道だから、真っ直ぐに進むだけだ。      東銀座の外れ、石造りの建物の一階にテーラーはあった。  通り過ぎてしまいそうになる程、小さな店構えだ。 「先輩! 開店おめでとうございます」 「おー、流、久しぶりだな。おっと、そちらは?」 「俺の……恋人です」 「‼」  突然何を言い出すのか!  僕は目を見開き、固まってしまった。 「そうか……とうとう流の夢が叶ったのか」 「えぇ、この人は俺がずっと憧れていた人ですよ」 「良かったな」 「ありがとうございます。先輩こそ……彼とは相変わらず?」 「もちろん円満にやっているさ」  彼?  どうやら相手も同じ立場らしいが、流の行動には驚いてしまった。 「俺の恋人に、とびきり似合うスーツを作って欲しい。超特急で」 「ははっ強引だな。可愛い後輩の頼みだ。聞いてやるよ」 「卒業式と入学式で着るからオーソドックスだが、洗練されたデザインがいい」 「よし、任せておけ」  採寸の間も、流は僕をずっと見つめていた。  人目を憚らず、穴があくほど見つめられて、僕は頬を染めてしまう。  生地選びも、全部、流に任せた。  そうしてやりたくなった。 「流、今日はもう店仕舞いなんだ。一杯どうだ?」 「車で来たから俺は飲めないですが、彼に一杯だけお願いします」 「どうぞ、俺のパートナーの店へ」    なんと……店の地下がバーになっていた。 『BAR・ミモザ』  小さなカウンターの店構え。  まだOPEN前で、客は誰もいなかった。 「いらっしゃい。兄さんのお客さん?」 「え?」 華奢で美しい青年は、テーラーの主人を「兄さん」と呼んだ。 「あぁ俺の後輩と、その恋人だ」 「そう……はじめまして」   出されたカクテルは、店名でもある『ミモザ』だった。  スパークリングワインにオレンジジュースを加えたカクテルで、オレンジの甘酸っぱい風味とスパークリングの清涼感が調合し、フルーティーで爽やかな味わいだった。 「これは、あなたたちみたいですね」 「え……甘酸っぱい想いと清涼感……『秘密の恋』が似合います」  それ以上は、バーの店主もテーラーの店主も何も聞いてこなかった。  だから僕たちも……何も話さなかった。  だが居心地は悪くはなく、むしろ良くて……  たった一杯のカクテルにふわふわとした心地になってしまった。  そうか……ここでは、僕は『流の恋人』と名乗れるのか。  それはとても不思議な感覚だ。    帰り際、車の中で流が苦しげに呟いた。 「翠、悪かったよ。さっきは驚かせたよな」 「……突然、どうした?」 「先輩たちも……実は……俺たちと同じ立場なんだ」 「……それは……察したが」 「俺も一度でいいから、誰かに翠を紹介したかったんだ。だから……スーツをだしにした」  流、そんなに苦しげな顔をして…… 「馬鹿だね。驚いたけど嫌ではなかったよ」 「ほ、本当か」 「そうだね。少し照れ臭いけど嬉しかったよ。『流の恋人』か……そんな肩書きもいいね」 「翠は優し過ぎる。俺は少し薙との親子の時間に焼き餅を焼いていたのに」 「……流を不安にさせたんだな。最近、僕が父の顔ばかりしているから」 「そんなことはない。父の顔の翠も好きだ! 薙も好きだ!」 「ふっ、分かっているよ。なぁ、今日は離れに行かないか。母さんがいい物を見つけてくれたんだよ」 「な、なんだ? 母さんのいいものって、ワクワクするな!」    あれはすぐに封印しようと思ったが、こんなに健気な弟の姿を見たら提供したくなった。  あぁ、やっぱり僕は相当流に甘い。  だが、そんな自分が愛おしい。  弟への溢れる愛を隠さないでいられるのが、嬉しいよ。    

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