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蛍雪の窓 9

 庭の手入れをしていると、学ラン姿の薙が珍しく本堂に入って行くのが見えた。  薙は寺の息子だが仏教に何の関心も持っていないので、読経中の翠に用事があるのだろう。  すると、すぐに翠の読経が止んだ。  一体、何を話しているのだろう?  俺は翠の父親の部分も大切にしている。だが……どうやら父としての役目を果たす翠に、嫉妬してしまっているようだ。  心が狭い男だな。  俺は我慢出来ずに、本堂に向かった。  薙の話は、卒業式の件だった。  それならば俺も中に入っていいだろうと扉に手をかけると、中から薙が飛び出てきた。  薙は俺には目もくれず奥庭に走り去ってしまった。  あぁ、そうか……何か小っ恥ずかしいことがあったのだな。  俺もよくそうやって走ったものだ。  俺の心がパンクしそうになった時、いつも寺の奥庭へ向かって、まっしぐらに走った。  俺にとってこの庭は、昔も今も……翠そのものだ。  この庭の深く透き通った碧。  包み込まれるようなしっとりと苔生した大地。  覆い被さるように生息する竹林。  全部、俺の翠の色、翠の香りだ!  急にムラムラと沸き上がってきたのは、独占欲だった。  月影寺から翠を連れ出し、俺だけの翠にしたい。  そんな自分勝手な理由で、翠を銀座に誘った。  翠は何も言わずについて来てくれる。  翠は全てを俺に委ねてくれている。  大学の桐生大河《きりゅう たいが》先輩は、服飾関係の仕事に就き、最近銀座に店《テーラー》を構えて、独立したばかりだ。 大学時代、兄への募る想いに苦しんでいた俺の悩みに気付き、支えになってくれた恩人だ。  桐生先輩もまた、苦しい恋をしていた。 先輩にだったら、翠を紹介出来る、俺の恋人だと堂々と宣言出来る!  秘密の恋でも有り難いと思っていたのに、翠が父親の顔をすればするほど、芽生えるのは小さな嫉妬だった。  俺って、こんなに心の狭い人間だったのか。    テーラーはとても落ち着いた雰囲気で、英国風の内装だった。 先輩は俺の恋の成就を喜んでくれた。  一方翠は急に俺の恋人だと紹介され驚いていたが、静かに受け入れてくれた。  翠の人としての器の大きさを思い知る。  焦って足掻いて衝動的にこんな場所につれてきたのも、許してくれるのか。  スーツは既存のものではなく、翠の躰にフィットするものを仕立ててもらうことにした。 「採寸は流の前でするから安心しろよ」 「流石、先輩は気が利きますね」 「ははっ、お前の脳内はダダ漏れだからな」  そうだ。  俺は……翠に他の男が近づくのが許せない。  先輩だからここまで譲歩出来るのだ。 「流、そんなに見つめないでおくれ」  じっと熱い視線を送っていると、翠が目元を染めて流石に文句を言う。    イギリス伝統と風格を受け継ぐ最高級の生地で、スーツとワイシャツを仕立ててもらうことにした。  品の良い翠が、しなやかで上質なスーツを着たらどんなに魅力的か。  自慢気に思う一方で心配だ。  やはり俺も式典に付き添うべきか。   「ネクタイは流が見立ておくれ」  優しくて美しくて気高い翠。 「いいのか」 「そうして欲しい」 「じゃあ、この紺瑠璃色のにしろ。これは瑠璃色がかった高貴な色として江戸時代に流行した色で、セレモニーにぴったりだ」 「いいね、そうするよ」  たおやかに微笑む翠。 「流、お前の恋人はえらく上品だな」 「ずっと憧れていた人です。ようやく夢が叶いました」 「良かったな。俺と蓮のことでは、お前に散々相談にのってもらったから……精一杯恩返しの気持ちを込めて仕立てるよ」 「感謝しています」  大河さんの相手も男で、しかも弟だ。  このビルの地下には、弟の蓮《れん》くんの店がある。  彼の職業は、バーテンダー。  先輩の方も、色々あって成就した恋だ。  テーラーと同調の英国風の店内。  アクセントはミモザ色。  店の名前の『ミモザ』の花言葉は、『秘密の恋』だ。  彼の作った一杯の酒で翠を酔わし、月影寺に連れ帰る。  車中で翠はほろ酔い気分なのか始終上機嫌で、俺を離れに誘った。 「何だ? 母さんからのいいものって?」 「……それがね、僕の高校の制服なんだよ」 「それって、ジャージに続くお宝じゃないか!」 「ふっ、流は絶対にそう言うと思った」  翠にとっては良い思い出ではないだろうに……だが今の翠は懐かしそうな顔で、微笑んでいる。だから甘えたくなってしまった。 「翠……本当は、それ着てみたかった。翠と同じ制服を着てみたかった……兄さんと同じ高校に通いたかったんだ」  思わず漏れ出したのは、当時どうしても言えなかった泣き言だった。    

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