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花を咲かせる風 5

「父さん……オレ……さっき洋さんに悪いことしたかも」 「どうした?」    袈裟に着替え本堂で読経していると、パーカーにジーンズを履いた薙が神妙な顔をして入って来た。 「さっきの学ランのボタンのことなんだ。山門で『家族』を意味するボタンを父さんにあげたんだって自慢気に話してしまって……よく考えたら……洋さんにはもうお父さんがいないから、洋さんには出来ないことなのに悪かったなって」 「薙……誰にでも死はいつか訪れるものだよ。早いか遅いかによって感じ方も変わるけれどもね。洋くんの寂しさは洋くんにしか分からないものだし、洋くんもそんな風に哀れんで同情されるのは望んでいないと思うよ」 「そっか、オレも洋さんの立場だったら、確かにイヤだな」  薙は最近、心の内を僕によく話してくれるようになった。  もっと父親らしいアドバイスをしてあげたいところだが、とてもデリケートな問題なので、僕の意見で薙の考えが固定されてしまうのは躊躇われる。 「洋くんが戻ってきたらいつも通りに接するといいよ。きっと洋くんも感情を整理して戻って来るだろうから」 「分かった。父さんに相談してみて良かった。あ、あのさ……正座は足が痺れるからもう行くよ!」  用事が済めば明るい笑顔で飛び出して行くのは、流に似ているね。  流もよく正座しては足が痺れたと騒いで大変だった。  懐かしさが込み上げ畳の縁を眺めていると、作務衣に着替えた流がヒョイと顔を覗かせた。 「翠、俺を想ってくれているのか」 「ちっ、違うから」 「なぁ……さっき洋くん、ちょっと沈んでなかったか」 「……流石だね。薙と同じことを聞くんだな」 「薙も?」 「うん……洋くんの表情が暗かったから、僕も気になっていたんだ」 「俺たち、寂しい思いをさせたか」 「……かもしれないね。こんな時は丈が傍にいてくれるといいのだが」 「もうすぐさ。開業したら丈と洋くんも、俺たちみたいにいつも一緒だ」 「うん……だから特に、ふいにおばあさまがいらして下さって良かったよ」  仲良く出掛けていく後ろ姿を見て、安堵した。 「そうだな。洋くんにとっても、おばあさまにとっても、お互いに救いの存在だもんな」 「人の感情は様々だよ。日によって空模様のように変わっていくしね。羨ましいと思う気持ちも時に湧くのが自然だと思っている。仏教では嫉妬慳貪は悪業・煩悩という悪い行いの一つとされているが、僕は人らしい感情の一つだとも思っているよ。住職失格かな?」    流が意外そうな顔をする。 「翠の教えはストンと落ちるよ」 「……邪道だよ。でも人間らしいありのままの気持ちに寄り添いたくてね」 「つまりさ、洋くんにも人間らしい感情がどんどん戻って来ているということか」 「そうだよ、長年……お義父さんによって抑圧されていた感情を解放しているんだ。僕たちはだから……そっと見守ってあげよう。洋くんが誰かを羨ましいと思えるようになったのは、人間らしく生きている証拠だよ」  流と話すうちに僕の心の中も、凪いでいく。  竹林を渡る爽快な風を浴びているような心地になる。 「きっとおばあさまと楽しい時間を過ごして、すっきりした顔で戻ってくるよ。今日あのタイミングでおばあさまがいらして下さったのも、仏様のご縁なんだ」 「ふぅん、じゃあ、今このタイミングで俺がここにいるのも縁か」  流の顔が近づいてくる。 「ば、馬鹿……ここは本堂だよ」 「何もしないよ、翠」  流の手が僕の髪に触れる。 「駄目だ!」 「だが……翠の髪に、蜘蛛が落ちてきたぞ」 「く、蜘蛛っ!」  僕は本当は虫が大っ嫌いで、特に蜘蛛が怖い。 「りゅ……流、取って! 取っておくれ」  涙目になって真っ青になって流に抱きつき、子供みたいに騒いでしまった。 「翠……落ち着けって、おいおい、これじゃ翠に押し倒されているみたいだ」 「え!」  僕は畳に流を押し倒して、藻掻いていた。  カーッと顔が火照る。 「首筋まで染めて……翠、ここは本堂だぞ」 「わ、分かってる。と……取れた? もういない?」 「あぁ、もう大丈夫だ」  流の男らしい匂いを間近に嗅いで、ほっと一息。  偉そうなことを言っても……  僕は流によって、全ての感情を揺さぶられている。  そんな喜びも悲しみも……嫉妬や妬みも……全部受け入れよう。  流を思慕する感情は、誰にも縛られたくない。  

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