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花を咲かせる風 16
「あれ? 出ないな」
流さんの携帯は、今度は留守番電話になっていた。
「もしかしたら……兄さんは庭掃除をしているのかも。洋、次は寺の固定電話にかけてみるといい」
「あ、そうか、そうだな」
気を取り直して月影寺にかけると、すぐに明るい声がした。
「もしもーし、月影寺です」
「小森くん?」
「ムシャ……あ、洋さんですか……ムシャ」
ムシャ? 何か食べている最中だったのかな?
時計を見ると、ちょうどおやつの時間だったので合点した。
「あぁ小森くん、休憩時間に悪いね。流さんはどこにいる?」
「ムシャシャ……ゲホッ、ゴホホッ」
喉に詰まったのか、激しく咳き込む小森君に心配になった。
「だ、大丈夫?」
「す、すみません。えーと、えーと……えーとですね、流さんはですね」
小森くん……いつにも増して挙動不審だ。
「うん、探してきてもらえる?」
「えっと……今……そうだ……ずっと、か……厠《かわや》にいます‼」
「え? どうしたの? ずっとって……お腹でも壊したの?」
小森くんの声が勢い付く。
「そうなんですよ。流さんってば食いしん坊で、僕の焼き団子を10個も食べちゃって、その後一気にピーピーに~」
流さんが団子を食べ過ぎて腹痛?
うーん、全然結びつかない。しかも小森くんが団子を譲るのも変だ。
その時、ボカッと変な音がした。
「小森め! 俺を勝手に下痢ピーにすんなよ!」
「わーん、げんこつなんて酷いです。えーんえーん、住職さまぁ~」
「わ、悪かったよ。よしよし」
なんとも呑気な会話が繰り広げられ、想わず苦笑してしまった。
「ところで誰から電話だ?」
「あ……洋さんですよ。麗しの洋さん」
「そうか」
ようやく、流さんと話せた。
それにしても……留守中の寺は平和で楽しそうだな。
「どうした? 楽しんでいるか」
「あ……はい」
「もう着物は着たのか?」
「え……どうして、それを?」
「あ、いや。京都は観光地だからレンタル着物屋も多いだろう。洋くんも着てみろよ。君はもっと羽目を外してもいいんだぜ。傍に丈もいるんだから」
「羽目を外す……いいですね。あ、そうだ。聞きたいことがあって」
「なんだ?」
「あの……宇治の山荘の住所って、今、分かりますか」
流さんの声が、少し強張った。
「あれは翠しか記憶していないよ。だが生憎翠は旅行中だから手元には持っていないだろう」
「……そうですか」
「そうだ……洋くんたちは今京都にいるのなら、一宮屋に直接行けば教えてもらえるだろう」
「あぁ……あそこですね。俺もあそこには挨拶に行こうと」
「それがいい。くれぐれも無理すんなよ」
今度は心配そうな声だ。
「大丈夫です。今回は自分でも驚く程、焦っていません。父と夕凪のことをもっと知りたい気持ちで満ちていますが、不思議と落ち着いています。だから今日は観光を楽しみました。さっきは京抹茶のソフトクリームを丈と食べましたよ」
「それは、いいことだ。焦らずに楽しみながら紐解くといい。もう切羽詰まったものはないのだから」
「はい、そうします」
電話を切ってから、俺と丈は歩き出した。
もう夕暮れ時で、雲のない西の空に夕焼けの名残の赤さが残る、まさに黄昏時を迎えていた。
あの日は翠さんと並んで、今日は丈と並んで、京の町に沈みゆく太陽を見守っている。
近代的なビルに囲まれて窮屈そうな町屋が続くが、繊細な千本格子や重厚感のある糸屋格子など趣のある格子が並び、深い影を作っていた。
やがて、俺にとって懐かしい場所に辿り着く。
「丈、こっちだ」
ここは夕凪の生家。
あぁ、俺の中の夕凪が喜んでいる。
店の前に立つと、あの日のようにガラリと引き戸が開き、中から高齢の女性が出て来た。彼女の名は確か夕凪の許嫁だった桜香さんの娘で……
「桃香さん!」
「あら? あなたは宇治の君ね」
「はい……洋です」
「まぁ相変わらずの美人さんね。しかも今度は違う殿方を従えて登場なのね」
「はじめまして。張矢 丈です」
「こちらも紳士的なお方ね。ところでどうされたの?」
「実はお願いがあって」
「お上がりなさい」
俺の願いは、二つあった。
一つ目の宇治の山荘の住所は、いとも容易く教えてもらえた。
夕凪が宇治の山荘から北鎌倉に荷物を送った荷札が、まだここにあったから。
「ここは険しい山道だから、今日は駄目よ。明日お行きなさい」
「そのつもりです。なので、もう一つお願いがあって」
「何かしら?」
「こちらでも着物の貸し出しをされていると、店先に看板が出ていましたが」
「あぁそうよ。これは最近の流れでね。でもうちの店のはポリエステルの着物じゃなくて、正絹なのよ」
「よかったら今からお願い出来ますか。俺たちに着物を見繕って、着付けていただけますか」
「洋……正気か」
「さっき丈も着たいって言っていただろう」
「それはそうだが」
自分でも驚くほど積極的になっている。
俺の中の夕凪……
また……君の声が聞こえるよ。
着慣れた着物を身につけたいと、声がする。
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