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花を咲かせる風 38
大鷹屋で、薫(夕顔)の遺作と言われる橙色の着物を着せてもらい、その足で嵯峨野に向かった。
この着物は夕凪が薫という号で作ったものだ。
夕凪……今、俺は君のすぐ傍にいるよ。
一心同体だ。
「洋、今……何か感じているのか」
「あぁ、この地には、とても強い思念が巡らされている」
「一人で受けとめられそうか」
「丈……頼む。手を繋いでいてくれ」
竹林を見上げると上方で竹の葉が重なり合い、風が吹くとさわさわと静かな音を立てていた。
「古《いにしえ》の想いが届きそうだ」
「洋、集中して耳を澄ませ」
低い……低い声がする。
……
「お前達に……遠い遠い……昔話をしてもいいか」
「俺たちに伝えたいことがあれば、ぜひ」
「あれはまだ……私が三つか四つの頃だった。世界が薔薇色に開けたのは」
……
「まこくん、おいで」
「おかあちゃまぁ……あんよ、いたい」
「どうしたの?」
「ここぉ……いたいの」
鼻緒のあたりが擦れて赤くなったのを見せると、おかあちゃまは心配そうな顔をした。
「あぁ、そうか。もうこの下駄は小さくなってしまったんだね。鈴も一つ取れてしまったし、新しいのを買ってあげよう」
「ほんと?」
「どれにしようか。まこくんは青い鼻緒が好きかな?」
「おかあちゃまとおなじ、だいだい色がいいな」
「一緒か、いいね」
「おかあちゃま、だいしゅき」
「まこくん……可愛いまこくん」
いつもうっとりと見上げていた美しい母が、生みの親でないと知ったのは、10歳で引き離された直後だった。
それまで夕凪と呼ばれる美しい人が、自分の母親だと疑うことはなかった。
しかも……後からよく考えれば、私が母と慕った人は同性で男だった。
母の病を理由に離されたが、きっとそういう特殊な事情が、私の成長に影響しないようにと……父と義父の配慮だったのかもしれない。
私には男だろうが、女だろうが構わなかったのに。
ただあの人を母と慕い、永遠にあの日との息子でいたかっただけだった。
義父は私をそれなりに愛してはくれたが、義母は冷たかった。あまりの居場所のなさに我慢の限界を超えて、成人を祝ってもらった夜に大鷹の家を飛び出してしまった。
ただ高校時代になんとか突き止めた……あの人が父と暮らす宇治の家には戻れなかった。
あの人は心臓を患っていた。
心の負担は寿命を縮める毒となることを、義父からとくと聞かされていたから。
「来てはいけない」と高校生だった私を悲痛な想いで追い返したあの人の元には、戻るに戻れなかった。
何故なら、1分1秒でも長く生きて欲しいから。
放浪の身となった私は行き倒れ、嵯峨野の古い寺の住職に救ってもらった。
そのままその寺の娘と結ばれたのは、自然の流れだった。
最後に願ってもいいか。
私はあの人の本当の息子になりたかった。
「お……お前達にはこれを与えよう。私が残せる唯一のものはこれだけだ。いつか生涯の伴侶と巡り会えたら、その人に渡しなさい」
「しっかりして下さい!」
「……ひとつは……私の棺に入れて、あとはお前達が持っていけ」
私の手には、唯一持ち出せた古い写真が一枚握られていた。
夕凪という名の美しい母とまだ幼い私。
そして信二郎という名の父が、幸せそうに肩を寄せ合っていた。
****
「あっ……ボタン」
「洋、しっかりしろ、何を見ていたんだ?」
正気に戻ると、丈が俺の肩を掴んで必死に揺さぶっていた。
「ようやく……ボタンの行方が分かった」
「何だって?」
「一つは……まこくんの棺にと、残りは二人の手に」
「二人? それは一体誰だ?」
「嵯峨野……きっと、ここがまこくんの終焉の地だったんだ」
「じゃあ、まこくんは……もう生きていないのか」
「……おそらく」
その時、突風が吹きぬける。
さわさわと静かな音だったものが、ざわざわとうねり出す。
「薙くん、頼む!」
「え? オレ? 一体何をしたら」
「手を振りかざしてくれ。風に向かって」
「う、うん……なんだかスペクタルなゲームの世界みたいだな!」
「さぁ!」
「分かった! 頑張るよ」
薙くんが手を交差させ、まるで薙刀を持っているような仕草で振りかざせば、ざわついていた竹が落ち着きを取り戻す。
「来る!」
誰がやって来るのか、俺にはもう分かっていた。
まさか、こんな出会いがあるなんて――
竹林に一筋の光が差す。
そこに現れたのは―
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