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翠雨の後 29

 早朝の勤行を終え本堂と母屋を繋ぐ渡り廊下を歩いていると、ブラックスーツの男性を視界の端に捉えた。 「あ……彼は……」  山門に向かって真っ直ぐ走り抜ける逞しい背中の持ち主は、洋くんの親友の安志くんだ。  同時に……彼は涼くんの恋人だ。  そうか、君はちゃんと駆けつけてくれたんだね。  良かった。  会いたい人に会いたい時に会えるのが、一番の幸せだ。    僕はそのまま視線を、次第に色づく東の空へと向けた。  月影寺の竹林の先に広がる大空が、希望の色へと染め上げられていく様子を見たくて。  遠い昔の僕も、こんな風に勤行の後、早朝の空を見上げていた。  今思えば……  不吉な予感を抱き、決して逃してはならぬ夜明けだと感じたあの日、流水さんが身罷ったのだ。  暁から東雲、そしてやがて曙。  僕はあの日のように次々と美しく色づく世界に向かって、手をスッと伸ばした。  過去と声が重なる 「流……」 「流水!」  あの日の湖翠さんの絶望が、僕を一気に貫いていく。  気が付くと、はらはらと双眸から涙が溢れていた。    気を緩めると持って行かれてしまう。  過去の悔恨の思いに。  しっかりしろ、翠。  唇を噛みしめながら俯くと、ふいに流の声が背後から聞こえた。  あの日、天から降ってきた声は、今はすぐ後ろから聞こえる。  声だけでなく、温もりも吐息も与えてもらえる。 「翠、どうした? 朝から泣くなんて」 「流……いつの間に?」 「あぁ、泣くな。俺はいつも翠の一番近い所にいるのだから」 「ごめん、泣いたりして。今は呼べばすぐ来てくれると分かっているのに……何故だろうね、今朝は感傷的になってしまったよ」 「今は……唇にも触れられる」  流に顎を掴まれ、最初に涙を吸われ、その後くちづけを受けた。  目を閉じると、明るい光を感じた。  竹林の間から朝日が差し込んできたのだ。 「夜明けだね」 「明けない夜はない」 「うん……」 「さぁ翠、今日は入学式だろう。早めに支度をしよう」 「ん……」 「薙も起こさないとな」 「僕が起こしてくるよ」 「薙は俺に似て寝坊助だ」  流が笑うのでつられて笑った。  流も寝坊助だったよ。  いつも僕が起こしてあげた。  小さい頃の流はとにかく僕にべったりで、起こしに行くと必ず「にいに、いっしょにねんねして」と強請るものだから、僕も一緒に寝てしまい、母さんに怒られたよね。 「俺、物心ついたときから兄さんが大好きで大好きで、匂いや体温にほっとしていた。だからいつもベタベタしてたよな」 「可愛かったよ。でも……ベタベタなのは今もだよね?」 「ははっ、言ったな!」 「くすっ、流はそれでいい。僕はそれが嬉しい」  ありのままの気持ちを素直に伝えられるようになった。  遠回りした僕たちだが、今、こうして微笑み合えているのだから、遠い過去も近い過去も、けっして無駄ではなかったのだ。  そう思えるようになった。 「翠……眩しいな」 「え?」  小首を傾げると、流が赤くなった。 「翠が愛おしすぎて、朝からどうにかなりそうだ」  それだけ言うと、流は箒を片手に母屋に向かって歩き出した。  本当はいつものように駆け出したい気分だろうに……  僕の歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれるのは、流の優しさだ。  僕は上機嫌でその後を追った。  そして少し歩調を早めて、流の横に並んだ。 「翠?」 「これからは流の隣がいい。もう追いかけるのはなし、待つのもなしだ」 「あぁ、そうだな」  

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