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翠雨の後 33

「丈、俺も片付けなら出来る。やっておくよ」 「……じゃあ洋は食器を拭いてくれ」 「だが、出勤前で忙しいのに」 「大丈夫だ。洗い物は好きなんだ」 「ふっ、丈ってさ、何でもすぐに洗うよな」 「まぁな。洋の身体を洗うのが一番好きだ。二番目は洋と抱き合ったシーツかな」 「お、おい、朝からヤメロ!」 「ははっ、調子が出て来たようだ。今日はオペだから気持ちを上げていかないと」 「冷静になった方がいいぞ」  まだ小森くんは出勤前なので、庫裡には二人きり。丈が濡れた手を拭いて、俺を抱きしめてくる。 「ここでキスするのは初めてだな」 「馬鹿、よせっ……あっ……」  重なる唇はしっとり温かく俺を包んでくれる。昨日抱かれた余韻に火が付きそうで、慌てて身を捩った。  出勤前の丈に散々焦らされて、1日悶々としたくないんだよ。  俺の身体は丈のために出来ているといっても過言でないほど、丈に触れられると過敏すぎる程、感じてしまう。 「ん……っ、もう駄目だ」 「もう少しだけ」  顎を掴まれて上を向かされる。  丈の漆黒の瞳と目が合うと、胸の奥から懐かしさが込み上げてくる。  結局根負けして……腰を揺らしてしまった。 「ん……っ、ん……っ」  庫裡の窓から差し込む朝日に、過去が重なり心が揺さぶられる。  遠い遠い過去に見上げた格子には、どんなに背伸びしても届かなかった。  俺は幽閉されていたから、会いたい人に会いたいとどんなに願っても、何一つ叶わなかった。  蜘蛛の巣に絡め取られた小さな虫のように儚い命だった。 「洋……? 何かを思い出しているのか。瞳が虚ろだ」 「丈……過去がやってくる」 「大丈夫だ。ここは月影寺だ。前世からの負の因縁は置け」  そうだ。  ここは月影寺だ。  全ての過去を払拭出来る場所なんだ! 「そうだな」  すると突然ガラッと庫裡の格子戸が開いた。 「洋兄さん? そこにいるの?」 「りょ、涼!」    慌てて丈を押し退け駆け寄ると、涼がさっぱりした顔で笑っていた。  太陽を背負った涼の顔は晴れ晴れとして、寝間着のサイズが大きかったようで胸元が開いて、愛のスタンプがあちこちについているのが見えた。  よく見慣れた光景だが、涼の肌だと思うと目のやり場にこまる。  昨夜駆けつけた安志に愛をたっぷり注がれたことを如実に物語っている姿に、こっちが恥ずかしくなるな。    でも涼が満ち足りた顔で笑ってくれるので、嬉しくなる。  昨日までの落ち込んだ様子はもう見られなかった。すっきり払拭できたのは、安志に愛されたお陰だろう。 「おはよ! 洋兄さん、お腹空いた」 「ははっ、涼は若いな、薙くんと同じ台詞だ」 「あ、そうそう、薙とも仲良くなったよ」  もう呼び捨てに?  流石フレンドリーな涼らしいな。  俺の可愛い従兄弟の笑顔、それもまた俺がこの世で守りたいものだ。  涼は俺の片割れだ。  もしも暗黒の世界に落とされなかったら、俺が歩めたかもしれないもう一つの人生。  それを涼は歩んでいる。  だから涼の幸せを守るのは、己を守ることに繋がっているのさ。 「洋、私はそろそろ行くよ。涼の朝食はこれだ」 「丈、ありがとう」 「洋、涼がいるから寂しくないな」  俺は丈を玄関まで見送り、背伸びして唇を重ねた。 「待ってる」 「あぁ、また夜に――」  いつもの挨拶で見送った。 ****  門を潜ると、校舎の白い壁に人集りが出来ていた。 「クラス分けの掲示みたいだ」 「見ておいで」 「うん!」  同じ学生服の中に紛れ込んでいく、薙の背中を見送った。  人にぶつかりそうになったので、薙が流し目で、ふっと微笑みかけると……  周りがハッとした表情を浮かべ、薙に道を空けた。  その一連の動きが、まるで人混みを薙ぎ払うように見えてギョッとした。  薙は群を抜いて爽やかでカッコよかった。 「これはこれは、やっぱり俺を超える大物だな」 「薙~ 目立ち過ぎだ」 「翠、焦るな。なぁに、ここでは、あれくらいが丁度いい」

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