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翠雨の後 38

「新入生、入場!」  いよいよだ。  僕は中高一貫の私立に通っており、高校の入学式はクラスメイトも先生も知った顔ばかりだったので、普段の始業式と大差なかった。  だが、流の高校の入学式は特別だった。  入学式の朝、廊下で、流と出会い頭にぶつかりそうになって、胸が高鳴った。 …… 「おっと、ごめん! ぶつからなかったか」 「あ、うん、大丈夫だよ」  流は中学でどんどん身長が伸びて、もう僕の背丈を余裕で超していた。  見上げる程大きくなって、しかも初めてのブレザー姿だ。    流は僕を超えて、一気に大人びていた。 「あれ? 兄さんって……こんなに小さかったか」 「それを言うなら、流って、こんなに大きかったか」 「今、179cm。兄さんとの差は6cmになった。まだまだ伸びる予定だぜ」 「えぇ! まだ伸びるの?」 「そっ、イヤか」 「いや……背が高い流はカッコいいよ」 「そ、そうか」 ……  流は僕の言葉に満足気に笑った。  明るい太陽を背負ったような笑顔だった。    当時の僕は高校3年生。  まだまだ、のどかな春だった。  まだアイツに脅かされていない平和な時だった。  そうだ……アイツも、この学校の制服を着ていた。  僕に覆い被さった時……胸元で揺れたネクタイには、煙草のにおいが染み付いていた。    とてつもなく嫌な記憶を辿りそうになった瞬間、流が僕を呼んだ。 「翠、入場だ。薙だけを見ていろ!」  過去ではなく今を、僕たちの息子を見ていろと、流は言ってくれる。  その通りだ。  一瞬過去に引きずられそうになったが、僕はそこには堕ちない。  万が一アイツに出遭うことがあっても、もう二度とこの身には触れさせない。  視界に入ることも許さない!  結界を張り、全身全霊で撥ね付ける覚悟だ。 「翠……薙だぞ」 「あ、うん」  僕の強い気持ちに、薙も同調しているのか。  まだ初々しい新入生の中で、研ぎ澄まされた気を放っていた。 「薙らしいな。あいつは簡単には靡かない」 「うん、それがいい。あの子は逞しいよ。僕の憧れでもある」 「……薙は翠から生まれたんだ。翠の志を受け継いでいるから颯爽としているのさ」 「……流、ありがとう」  僕の自尊心を守ってくれて。  式典の間、僕は薙を一心に見つめた。  どうか恙なく高校生活を謳歌できますように。  健康に幸せに過ごしておくれ。  親の願いは、いつの世も同じだ。  やがて校歌合唱。  この校歌を最後に聴いたのは、流の卒業式だった。    親の代理で参列した僕は、胸元の火傷のヒリヒリとした痛みに脂汗を浮かべていて、記憶が定かでない。  だが……もう、あの日の傷はこの身体には存在しない。  流と結ばれ、心の痛みからも、身体の痛みからも、既に解き放たれている。  僕は自由になった。    ようやく、ここに辿り着いた。  すっと目を閉じ精神統一し、校歌の歌詞に耳を傾けた。   …… 青空に浮かぶ白い雲 寄り添う心集まる 由比ヶ浜 青い海 流れる水に夢のせて 瞳輝く 学び舎 愛の光に導かれて 清く 正しく 真っ直ぐに ……  流れる水に夢のせて……  良い歌詞だな。  その通りだ。  僕の身体は、流と共に在る。  真っ直ぐに届く愛の光に、導かれていく生きて行く。  この学校の校歌は、まるで僕たちのための詩のようだ。

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